綿矢りさ「インストール」

インストール (河出文庫)

インストール (河出文庫)


 今月6日ごろ発売になった河出文庫『インストール』を購入し読了した。文庫の解説で高橋源一郎が「ぼくは、この『インストール』という小説を都合、三度読んだ。一度目は、雑誌「文藝」に初めて載った時に。二度目は、単行本になった直後に。そして、三度目は、この解説を書くために」と書いているが、私も同じような道を歩んでいて、これが三度目の『インストール』体験であった。高橋源一郎と違うのは三度目のときで、私は文庫本でこの作品を読んだのだった。


 この小説を初めて読んだとき、そしてハードカバーの単行本で読んだとき、私は、この作品のところどころから拙さや不完全さを感じ、その印象を今までずるずる引きずってきたが、今回再読してみたら、これまでの印象と違ってかなり精度の高い小説だと感じた。いや、拙い、未熟だ、と思える部分もあるのだけれど、文章もストーリーもテーマも登場人物も、気持ちよくなるほどきれいに描けているのだ。雑音や澱みのない小説だ、と認識しなおした。


 タイトルのつけ方も卓抜で、2作目の『蹴りたい背中』は当初からうまいなぁと思っていたが、『インストール』というのもなかなか的確なタイトルだと感じた。古パソコンをインストールしなおして使用可能にし、風俗チャット嬢?の仕事を紹介してくれた小学生に、主人公が「あんた、私のこともインストールしてくれるつもりなの?」とふざけて言う場面が、タイトルの『インストール』とただちにリンクして、この作品全体に〝インストール〟という概念と語感が行き渡るような感覚をおぼえた。


 屈託なさげにエロティックな描写を挿入していて、読者へのサービス精神も感じられた。ただしこれは、この作品の書き手である綿矢が若くてかわいい女子高生であることを自覚的に利用した、あざといやり方とも受けとれる。とくに、風俗チャットを体験した〝私〟が「ぬれた」「パンツが湿った」と地の文で語るところなど、読者が作中の〝私〟と書き手の綿矢をダブらせ妄想を膨らませるであろうことを計算して書いているのでは、と思えてくる。
 でも、そういう妄想にまんまとハマらせてくれる綿矢のあざとさは、ぜんぜん不快ではない。


 物語全体の構造としては、一時的に生活を白紙化した女子高生が、ある期間現実逃避をして、再び現実に戻ろうとする、というもので、これは主人公がちょっとした異体験を通過することで成長していくさまを描いた物語とも考えられるが、私は、主人公が明確に成長したとは感じられなかった。
 主人公は、現実の生活をいったん休むことでまた元へ戻るための鋭気を養ったようではあるが、休む前の彼女より休んだ後の彼女のほうが一歩も二歩も成長しているという印象はなく、何も変わらないまま現実の生活に復帰することになった感が強いのだ。登校拒否をしているあいだの異体験は、主人公を成長させるためにあったのではなく、彼女の気分転換のためにあった。それで、気分転換の時期が終わりを告げたと悟った彼女は、何が成長したというわけでもないまま現実へ帰っていこうとしたのではないか。
 現実の生活からいったんドロップアウトして、異体験を通過し、再び元の現実へ帰っていくという構造は、ファンタジーと通底するものがあるような気がする。



 併録の書き下ろし短編『You can keep it』は、『インストール』『蹴りたい背中』で見られた奔放で微細な文体が影をひそめ、逸脱や余剰のない整然とした文体になっていた。これは、よく言えば、端正で無駄のないプロの文章だが、悪く言えば綿矢りさ独自のみずみずしくしなやかな自由さが失われた凡庸な文章だ。
 そうなったのは、短編という制約からか、これまで女子高生の一人称で書いていたものが男子大学生の三人称になったからか、綿矢りさが大人になったのか、そのほか何らかの意図があったのか、その辺の事情は分からぬが、文体だけに注目すれば、『イントール』『蹴りたい背中』のほうが私にはずっと魅惑的である。


 内容的には、友人に物をあげることで自己防衛している男子大学生・城島の人間関係と恋愛感情を描いた良作だった。
『インストール』では、主人公が登校拒否を契機に自分の部屋にあるあらゆる物を捨て去るが、こちらの主人公は、とにかく友人に自分の物をあげてしまうわけで、あえて言えば、どちらも自分の物を手放すことに重要な意味を見出している主人公なのである。


 城島が恋心を寄せる同級生の綾香に、城島はある嘘をつく。その嘘が見破られてからラストに至るまでの濃密な緊張感がいい。




 綿矢りさの次回作は、いつのことになるのやら。
 どこかでエッセイの連載でもやってくれないだろうか。