竹熊健太郎「私とハルマゲドン」

私とハルマゲドン―おたく宗教としてのオウム真理教

私とハルマゲドン―おたく宗教としてのオウム真理教


 本書は、人気ブログ「たけくまメモ」で活躍中の竹熊健太郎が、オウム真理教の事件に触発されて書いた文章を中心に成立している。1995年当時の竹熊の、オウム論でありオタク論であり、自分語り本である。私は、この本が発売された当時読んでいるが、今になって再び手にとってみた。



 いろいろとおもしろい文章があったが、第4章で竹熊が自分の少年時代を語った部分は、とくに共感するものがあった。竹熊と私では生きてきた道筋がずいぶん違うし、同じ〝オタク〟といっても、興味の対象はかなりズレている。それでも、ものの感じ方や見方の本質的な部分で一致点がいくつも見出せるのだ。
 とくに、竹熊がいじめられた中学時代の体験を書いたくだりは、よく分かるなぁ、という感覚を何度も味わった。私は、中高生のころ表立っていじめられたわけではないが、性格的にいじめられっ子的な心性を持っていたので、いじっめっ子よりいじめられっ子のほうに強く共感する。



 中学時代の竹熊は、自分をいじめた同学年の番長Fに対して復讐を決意するが、面と向かってやり返したり喧嘩を仕掛けたりという方法は選択の埒外だったという。そのあたりのことついて竹熊はこう語る。

下手に手を出して後で〝お礼参り〟されるのがこわい。絶対におれだとわからないやり方で復讐するしかない。こうした態度はさぞかし卑怯だと思う。しかし、正々堂々と勝負して勝つ可能性が皆無な以上、これしか方法はないのである。さもなくば、おれはFを殺すことになったかもしれない。

肉体的な喧嘩は小学校高学年以来まったくやっていない。喧嘩が起きそうな場所にはまず行かないし、そういう相手とも極力つきあわない。それでも喧嘩しそうになったら、たとえ相手に非があっても、さっさと謝るか、逃げる。もし逃げられなかったら……おれは臆病なので、相手を殺すかもしれない。

 私もこういうタイプだろうな、と思う。実際に復讐とかしたことがないけれど、もし復讐を実行するなら、卑怯と罵られようと臆病と嘲笑されようと、正々堂々真っ向から戦闘を挑むようなことはしないだろう。もっと遠まわしかつ陰険な方法で、相手にダメージを与えようと考えるだろう。 でも現実問題として、復讐を失敗したときのリスクを考えるし、そもそも実行力に乏しいので、卑怯で臆病な復讐すらしたくない。できるかぎりトラブルや戦いやいじめのシーンから遠ざかる生き方を心がけたい。
 自分の心身の弱さを思い知っている私は、危険そうな場には近づかない、相手の土俵に上がっての勝負はしない、という防衛的かつ逃避的な方法で、生き長らえていくしかないようだ。