「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」


 「週刊朝日」昭和29年4月11日号を入手しました。手塚先生が自伝でも言及されている記事「知られざる二百万長者 児童マンガ家・手塚治虫という男」が載っている号です。
 
 
 関西の税務当局が発表した長者番付「画家の部」で手塚先生が1位になったことに注目し、これを機に手塚治虫とは何者をか大人たちに知ってもらおうという記事です。この時代、手塚先生は子どもたちや漫画ファンの間での知名度は高かったのですが、大人たちにはあまり知られていなかったようです。ですから、いきなり長者番付1位に名を記した「手塚治虫」に対して、一般の大人たちは「これは誰だ?」ということになったのです。


 この記事のなかに、こんなくだりがあります。
「バンビは、映画館の中でパンをかじりながら一日五回連続みたのを最高に、合計八十回みたというし、白雪姫は五十回だ、といっている」
 『バンビ』『白雪姫』を何度も何度も何度も観たというのは、のちのちまで語る継がれる手塚先生の有名なエピソードですが、このエピソードのマスメディアへの初出はこのときだったのでしょうか?


 この号が発売された当時、手塚先生は漫画家の梁山泊と言われるあのトキワ荘に住んでいました。記事のなかで自分の部屋のことを「ガタピシしたアパート」「机に本棚だけ」などとレポートされて心に引っかかりをおぼえた手塚先生は、それ以後、来客に好印象を持ってもらうため本意ではないが何か金目の物を置いておくに限ると悟ったそうです。手塚先生がトキワ荘から並木ハウスへ引っ越したのもこの記事が書かれたから…と言われています。


 ちなみに、このときのインタビューに関して、手塚先生は以下のように書いています。
「昭和二十九年に、ぼくは、年間所得額が画家の部でトップになったとかで、週刊誌の記者がトキワ荘にインタビューに来た。記者は、部屋へはいったとたん顔をしかめ、次に呆気にとられたように、キョロキョロと部屋を見回し、信じられないような表情ですわった。
 彼の書いた記事によると「この百万長者の部屋は、ガタピシしたアパートの、机に本棚だけといってよい六畳間」と書かれてあった。これには、さすがのぼくも多少ひっかかった。お客さんによい印象を持ってもらいたいと思ったぼくは、本意ではないが、なにか金目のものを置いておくに限ると悟った。それからというもの、むやみに高級品を買いこんだ。エンプレスベッド、普及したての大型テレビ、ピアノ、ステレオ、大型スタンド、補助机、といったものをごちゃごちゃと飾りつけたために、ぼくは、机の中に頭を、テレビの下へ手を、ピアノの下へ足をつっ込んで眠らなければならなかった。それからしばらくして、今度は大宅壮一氏が取材に見えて、「文化的なものは一通り揃っている」と断定してくれた。なにごとも、見た目の体裁がかんじんなのだ。」
(『ぼくはマンガ家』1969年、毎日新聞社


 こうやって手塚先生の自伝で語られた伝説的な記事の現物を手に入れられて、ちょっと感激しています。