『フィルムは生きている』

 
 「中学一年コース」昭和33年4月号〜34年3月号、学年が繰り上がって「中学二年コース」昭和34年4月号〜8月号に連載された。
 

 手塚先生が「もう狂うほど動画作りに意欲をもやしていたころの、ぼくの私小説(私マンガ?)ともいうべきものです」(手塚治虫漫画全集『フィルムは生きている』あとがき、講談社、昭和52年)と語っているとおり、手塚先生のアニメーションへの燃えたぎる情熱が表出した作品だ。


 主人公は“宮本武蔵”という名の少年。そのライバルとして登場するのが“佐々木小次郎”だから、名前を見るだけでその関係性がわかりやすい。
 武蔵は、タンバササ山からマンガ映画を作りたくて上京し、横川プロダクションというマンガ映画会社を訪れる。ためしに絵を描いてみることになり、それを見たスタッフは「きみは天才だ こんなにはやくかける動画家はいない」と絶賛するが、40年間マンガ映画に身を捧げている“断末魔”なる人物から「よくかけとる だが……きみはマンガ映画は作れんな」と厳しい宣告を受ける。
 どうして作れないのかと武蔵が問うと、断は「きみの絵は動きが死んどる!!」と返答。そして、「フィルムは生きておるんじゃ!」と一喝する。この“フィルムは生きている”という断の主張が、作品のタイトルになり、主人公が追求するテーマとなるのだ。


 武蔵に待ち受けていたのは、険しい道のりだった。武蔵に情熱と才能があることを理解してくれる人はいるものの、何かが足りないようで、有名漫画家に原稿を見てもらいに行ったら追い返されるし、動画スタジオに勤めたら「絵ははやいが動きがないし死んでいる」とクビになるし、描き貯めた5万枚の原稿を焼かれたりもする。武蔵の口から「マンガ映画なんて……もう二度と作るもんかっ」と絶望的な言葉が漏れる瞬間もあった。
 しかし、もう一度初めから頑張りなおそうと決意した武蔵は、少年雑誌の編集長から声をかけられ、マンガを連載することになる。そのマンガが人気を獲得。だが武蔵がほんとうにやりたいことはマンガ映画であって雑誌のマンガではない。
 意を決した武蔵は、マンガの連載を止め、マンガ映画作りに打ち込んでいく。
 そんなおり、失明の危機にみまわれるのだが、それにも負けず武蔵のマンガ映画作りは続けられるのだった。


 夢を抱いて上京、ほとばしる情熱と努力、待ち受ける苦難、挫折と克服、切磋琢磨し合うライバル、慕ってくれる女の子、理解者や妨害者の存在……などなど、“ザ・青春ストーリー”といった趣である。未熟だった若い主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく“ビルドゥングスロマン”の面白さがあふれている。


 他の手塚マンガと同様、本作にも魅力的なキャラクターがいろいろと登場する。私が特にお気に入りなのが、武蔵がマンガを連載した雑誌「少年パック」の編集長(盤台庄助)だ。この編集長、とても粋な人物なのである。武蔵に連載を依頼するときのセリフがまずフルっている。武蔵に対し、
「あなたにかいてもらう以上一番人気のわるいものをかいてほしい」
「「少年パック」二百万が百万に落ちるくらい評判のよくない物をかいてください」
 と依頼するのだ。人気の必要な作品は既存の有名漫画家に任せるから、その代わり一生をかけたつもりで描いてほしいと。
 誰にも会いたくない心理状態に陥っていた武蔵の心を開かせ、心おきなく作品に集中できるようにしてあげる、じつに機微に通じた依頼の言葉だと思う。しかも、言い回しが洒落ている。ウィットに富んだ殺し文句!


 武蔵のマンガ連載が始まってみたら読者からファンレターがたくさん届くほどの人気で、そうなったときの編集長の言葉もまたイカしている。
「武蔵さん「うけないマンガ」が注文でしたっけね?」
「でもうけりゃァそれにこしたことはない。乾杯しよう」
……だなんて! カッコいい!! 編集長が人気の悪い作品を描いてほしいと依頼してくれたおかげで、武蔵は描きたいマンガを描くことができ、結果としてそれが人気につながったわけだ。
 編集長の粋なはからいは、まだある。武蔵がマンガ映画に打ち込むため「少年パック」の連載を降りたいと言ってきたとき、編集長の立場としては困るが個人としては大賛成だ、と武蔵の思いをしっかり汲み取ってくれる。そして、スムーズに連載を打ち切ることができるよう取り計らってくれる。武蔵が死んだことにして、誌面にその旨の断わり書きを載せようというのだ。そうしようと言った編集長は、なぜか突如として棺桶を注文する。届いた棺桶に武蔵の体を本当に入れてナムアミダブツを唱え、香典として原稿料も入れる――すなわち、ただ言葉のうえで“武蔵を死んだことにする”だけでなく、武蔵の葬儀を行なって彼を弔うことで、形のうえでも漫画家・武蔵の死を成立させたのである。
 そうすることが、編集長なりの筋の通し方だったのだろう。自分の雑誌の売り上げに貢献している人気漫画家を手放すのは、編集長の立場としては理にかなっていない。武蔵だって無理やり連載を降りたとなれば心のどこかで引っかかりが残るかもしれない。武蔵が死んだとただ読者に告知するだけでは読者に対する嘘であり裏切りでもある。そういった問題に対する編集長なりのケリのつけ方が、武蔵の葬儀を(たとえ形式的にでも)あげることだったのではないか。


『フィルムは生きている』を読んでいると、マンガ映画(=アニメーション)への情熱が熱くほとばしっているなあ、と随所で感じる。手塚先生がこの作品について「私小説(私マンガ)」と言ったとおり、武蔵のアニメーションへの情熱は、手塚先生のアニメーションへの情熱と重なっている。武蔵には、手塚先生のアニメ愛がまっすぐに投影されているのだ。
 手塚先生は「日本のアニメーション界は、昭和三十年代になってから、そろそろ開花期をむかえました」「そして、ぼくは東映動画スタジオで、長編の三作目にあたる「西遊記」をつくるスタッフの中にはいったのです」と述べている。そして「「フィルムは生きている」は、ぼくがはじめて東映のスタジオを訪れた前後」の作品である、とも。
 東映動画の長編アニメ『西遊記』は、手塚先生のアニメ初仕事である。手塚先生がご自分のアニメ会社を設立するのは昭和36年8月(手塚プロダクション動画部、翌37年に虫プロダクションに改名)のことであり、『西遊記』制作のころは東映動画のスタジオに通ってアニメの仕事に携わっていた。
 そんな、東映動画通いが始まった頃合いに描きだしたマンガが『フィルムは生きている』だったのだ。
 東映動画から手塚先生のところにアニメ制作の話が舞い込んだのが昭和33年、長編アニメ『西遊記』が公開されたのが昭和35年。まさに『フィルムは生きている』執筆期間と『西遊記』制作期間はリンクしまくっているのである。
 後年「マンガが本妻でアニメが愛人」「まんが映画は、ぼくにとって命と家族のつぎにだいじなもの」とまで語った手塚先生のアニメ愛はすさまじいものだったが、『フィルムは生きている』執筆当時は、マンガの世界ではトップランナーだったものの、アニメの仕事については新人のようなものであった。だからこそ、これからもっともっと本格的にアニメに力を注ぎたい、アニメのスタジオを自前で持ちたいという欲求は強く、その欲求が『フィルムは生きている』に直球を投げるように投じられたのだろう。


 そんな狂おしいまでの熱烈なアニメ愛を“マンガ”で表現しているところも、『フィルムは生きている』という作品の興味深さだ。手塚先生のアニメ愛が投影された主人公である武蔵は、人気マンガ家の道を捨ててまでアニメ道に邁進する。現実の手塚先生は、押しも押されもせぬ人気マンガ家であり、雑誌にマンガの連載をたくさん抱えていた。そうした立場にある手塚先生が、ほかならぬご自分のマンガのなかで“マンガを捨ててまでアニメに打ち込む手塚治虫の分身”を描いてしまうだなんて……。皮肉というか、分裂的というか、なんというか、手塚先生のアニメへの愛欲のほとばしりが、何もかもをねじ伏せてしまっているようだ(笑)
 そのように『フィルムは生きている』は、手塚先生がマンガの形式でアニメへの情熱を表現した作品といえます。物語のなかでも、主人公武蔵はマンガを描くこととアニメに対する情熱の間を揺れ動きます。本作は、表現形式と物語内容の両方でマンガ×アニメへの思いが交錯した作品なのです。


『フィルムは生きている』には、武蔵がかわいがっていた“アオ”という名の馬が登場する。今年は午年ということで、私は年賀状に手塚マンガの馬の図版を使うことにした。馬が出てくる手塚マンガはたくさんある。いくつかの候補のなかから、結局『走れ!クロノス』『リボンの騎士』『ぼくの孫悟空』の図版を使用した。
 この『フィルムは生きている』も、馬が印象的なかたちで描かれた作品だ。単行本の表紙に堂々と登場しているくらいだし。次の午年にはぜひ“アオ”の図版を使おう!
 と思ってみたが、12年も先のことなので、今ここで“アオ”を使おうと思ったことを忘れていそうだ(笑)