『タイガーランド』

 当ブログの4月28日の記事で“人間と自然の軋轢、文明による自然破壊・環境汚染”といったテーマを扱った手塚作品について少し触れました。
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20180428
 今回はその続きとして、同様のテーマをもった手塚作品をもう一作とりあげ、それについてじっくり語ってみようと思います。
 とりあげる作品は『タイガーランド』です。
 
 ・『タイガーランド』を収録した手塚治虫漫画全集タイガーブックス』1巻


 『タイガーランド』の物語の舞台は、日本の小さな島である。そこは有人島だが、年々人が減っており、住んでいるのは2世帯4人だけだった。おばあちゃんと同居するアイノとハジムの姉弟の家と、島に流れ着いたネコを引き取って育てるヤジロベエじいさんの家があるだけなのだ。(手塚先生が講談社全集のあとがきで書かれているが、姉のアイノは『三つ目がとおる』のヒロイン和登サンが特別出演したもので、物語の序盤に出てくるノラ犬たちは『ワンサくん』に登場する犬たちである)
 そんな小さな島にトラが出現する。アイノとハジムの家の前にトラが倒れていたのだ。姉弟はそのトラを納屋にかくまった。
 当然ながら、日本の小島に野生のトラが生息しているはずがない。では、なぜトラが現れたのか?
 単純に考えれば、日本のどこかの動物園からトラが逃げ出したか、誰かがトラをこっそりと島に持ち込んだか、といった推測が成り立つだろう。だが、このトラが島にたどり着いた経緯は、もっとドラマティックだった。ドラマティックといえば聞こえはよいが、このトラにとってみれば悲劇的な意味でドラマティックだった。私は、トラが日本の小島に到達するその経緯に心を震わされた。


 このトラは、もともとインドに住んでいた。インドから日本へ泳いできたのだ。トラがインドから日本まで泳いでくるなんて、そんなことありえない……と思うのが常識的な考えだが、このトラは常識を超えていた。常識を超えた行動を取ったのは、子を思う母の愛の深さゆえだった。
 このトラはメスで、幼い子どもがいた。その子トラが、インドを訪れた日本の国会議員・勝買洲(かつばいしゅう)に持ち去られ、日本へ連れていかれてしまった。母トラは、子トラが乗せられた日本行きの船を追って海を泳ぎ、日本まで渡ってきたのだ。
 子を思う一心で、自分の命もかえりみず、母トラは泳いで船を追い続けた。途中、事情を知った船上の人々(勝買洲と同じ船に乗っていたが勝買洲と関係のない人々)からの応援があったものの、どれだけ非難を浴びても勝買州は頑として子トラを返さない。それどころか、海に毒の餌をまいて母トラを殺そうとする始末。毒餌にやられなかった母トラだが、体力的にはとっく限界が来ていて、息もたえだえだった。どうにか日本が近づいてきたところで死に瀕するくらい弱ってしまった。
 もう少しで日本の港に入れる、というタイミングで大嵐が起こり、母トラは行方不明になる。そうして漂着したのが、アイノとハジムが暮らす小島だったのだ。


 『タイガーランド』の序盤では、そんなふうに、母トラがインドから日本へやってきた経緯が10ページにわたって描かれている。私はこの10ページを読んで心を強くつかまれた。子トラを追って海を泳ぐ母トラの表情に浮かぶのは、体力を失い生命の危機が迫る肉体的な苦しみだった。そしてそれ以上に色濃く浮かんでいたのが、人間に捕獲された我が子を気にかける心情だった。自己の肉体的な苦しみと我が子を心配する気持ちとが折り重って、悲痛な表情になっているのだ。そんな複雑な表情を見事に表現した手塚先生の筆致に、あらためて驚嘆させられた。それとともに、母トラを支援する船上の人々に共感し、子トラを連れ去る勝買洲のあまりの憎たらしさに怒りがわいてきた。勝買洲は本作におけるヒールである。


 小島になんとか漂着した母トラだったが、手当ての甲斐もなく命は助からなかった。ハジムは、死ぬ間際の母トラに、子トラを探し出してこの島へ連れてくる、と誓う。母トラの亡骸は、山梨の木の下に埋められた。すると、その木の幹・枝・果実にトラジマ模様が浮き上がった。山梨の木に、母トラの心が宿ったようだ。
 この山梨の果実は不思議な力を持っていて、それを食べると知恵づいて、動物の言葉がわかるようになる。手塚先生によると、初出ではこの果実を食べて得られる力として動物の言葉がわかる以外にもっといろいろなものがあったそうだが、「まとめて読み返してみるとあまりに唐突ですし、それほど超能力を使う必然性もないようだったので、そこだけのぞきました」(手塚治虫漫画全集タイガーブックス』1巻、あとがき、1978年)ということである。
 食べると知恵づく木の実……というと、別の手塚作品『ユフラテの樹』を思い出す。この作品に出てくるユフラテの樹の実にも、それを食べた者の知恵を発達させる力がある。ユフラテの樹の実の場合、食べた者を知恵づかるだけではなく、人を殺せる念力のような超能力まで与えてしまう。それが物語を凄惨なものにしていく。手塚先生が述べているように、ユフラテの樹の実は、旧約聖書の創世記においてアダムとイブが神に禁じられていた知恵の樹の実を食べたエピソードがアイデアの源泉になっている。


 母トラの表情描写がすばらしい、と先述したが、子トラの表情も生き生きとしていてとてもチャーミングだ。喜んだり悲しんだり怒ったり、といったストレートな表情もいいけれど、すこし怯えたり、わずかにしょんぼりしたり、きょとんとしたり、そんな微妙で中間的な表情に私は魅せられた。
 アイノとハジムらによって、子トラは勝買洲の邸宅から救い出される。その後、ボートで本土から島へ運んでもらったのだが、その途中でヤジロベエじいさんから「おっかさんは長い長い海の旅を泳ぎ続けた……おまえにそのくらいの根性があるかな?」と母トラを引き合いに出されてムキになり、自ら海に飛び込んで泳ぎ出した。このシーンも、けなげで泣かせる。母トラが大海を泳いで日本までやってきた場面とイメージが重なって、ジーンとしてくる。母トラに負けじと意地になって泳いだ子トラだったが、島に着く前に海へ沈んでしまい、助け出されることに。根性があることはわかったものの、まだまだ未熟なのだということが印象づけられた。


 子トラが島に来てからは、未熟な子トラが成長し立派になっていく姿が物語の眼目の一つとなる。子トラは島でクロボシと呼ばれた。ジロチョーという名のイヌみたいなネコが中心となって、クロボシが強くなれるよう、仲間とうまくやっていけるよう教育していった。
 はじめは泣き虫でわがままで未熟だったクロボシは、しだいにしっかりしていき、体も心も成長していく。島のリーダーとして人望ならぬ獣望を集め、身体は大きくなり、顔つきが精悍になった。そうしたクロボシの成長ぶりも、本作の魅力である。幼い時分のクロボシの未熟さを知っているから、立派になった彼の姿にひときわ感慨をおぼえるのだ。ジロチョーに認められたクロボシは、今後シロボシと名乗ることを許される(けれど、ここでは便宜上「クロボシ」と呼び続ける)。


 物語のラスト。クロボシは大きな選択をする。自力で海を渡って故郷のインドへ帰ることにしたのだ。インドに向かうため一本の丸太を使うものの、自分で泳いでインドへ向かおうというのである。このとき私の頭には、母トラがクロボシを追いかけてインドから日本まで海を泳いできた場面と、勝買洲宅から救出された幼いクロボシが頑張って泳いだのに海に沈んでしまった場面がよみがえってきた。そうした場面が先にあったから、最後にクロボシが同じ方法で故郷に帰ろうとするのは物語の最高の締め括りだ、と感じられる。インドに帰り着けたかどうかまでは描かれないが、あれほどたくましく立派になったクロボシならきっとインドに帰れるだろう、と強く信じられる。クロボシを追って日本まで泳ぎ力尽きた母トラの魂も救われるにちがいない。
 クロボシがインドへ泳いで帰ろうとする行為は、『ジャングル大帝』で幼いレオが海を泳ぐ場面を彷彿とさせるところもある。
 『タイガーランド』は、実にうまく完結に達した物語だと思う。


 さて、『タイガーランド』は、そのようなクロボシの成長物語の側面があるわけだが、それと合わせて、人間の自然破壊と戦う物語、という側面もある。クロボシの成長と自然破壊との戦いは密接に絡み合っている。
 クロボシとクロボシより先に島に住むネコたちは、人間のせいで苦しむ動物たちを島へ連れてくることにした。そして、この島を「タイガーランド」と呼ぶことに決めた。その話を聞きつけた各地の動物たちは、島を目指して大移動を始める。
 この大移動の場面は、当時の日本の環境破壊を鋭利に風刺している。タイガーランドの情報を聞きつけて一番喜んだのは「公害病にかかって息たえだえになっているけものたち」だった。それほど、人間がまき散らす公害が深刻だったということである。「ミナマタってところから親子そろってにげてきたんです」と言うネコの一家も描かれており、公害病の発生した場所の一つを具体的に示すことで、公害問題をチクリと刺している。

 
 公害に苦しむ動物たちとともにタイガーランドのニュースに大喜びしたのが、滅びかかっている動物たちだった。人間の活動のせいで絶滅寸前の動物や、数が著しく減少している動物が続々とタイガーランドに移動してきた。日本における絶滅寸前の動物の象徴的存在・トキをはじめ、アマミノクロウサギカブトガニ、ホタルなどが移ってきた。こうした描写が、動物を絶滅の危機に追い込んだ人間の罪を読者に意識させる。


 動物たちが安全に暮らせる島になるはずだったタイガーランドだが、その構想を邪魔するのもまた人間だった。国会議員・勝買洲の経営する企業が、この島を買い取って開発し、石油コンビナートを建造しようと乗り込んできたのだ。ここでまた、あの勝買州のヒールっぷりが炸裂する。
 正攻法では島を手に入れられないと悟った勝買洲の会社は、暴力団を使って島の住人を追い出し、ライフルと毒ガスと火炎放射器で島を焼き尽くしブルドーザーで整地する計画を立てる。そんな侵略的行為からタイガーランドを守るため、島の動物たちと住人が命がけの戦いに挑むことになる。


 勝買洲とそのグループの人間たちは、いかにも悪そうに描かれている。心底憎たらしくイヤな奴らばかりである。そうやって彼らの悪さをわかりやすく戯画化して描き出すことで、自然を破壊し動物たちを苦しめる人間の罪が明るみに出されていく。
 この、いかにも強欲で悪そうな政治家・勝買洲に、特定のモデルがいるかどうかは分からない。ただ、手塚先生は『タイガーランド』について「田中角栄首相がまだ日本列島改造論をさかんにぶっていたころで、人間はそれにやむをえず従っても、自然や生きものたちがはたしてゆるすだろうかという気持ちでかきました」と述懐しており、少しは田中角栄のイメージが投影されていたのだろう、と思わないでもない。


 タイガーランドの動物や住人と勝買州グループの戦いを最終的に決着させたのは、先に紹介した山梨の実だった。食べると知恵づいて動物の言葉がわかるようになる実だ。この実を食べずに全部獲って島の周りに浅く埋めなさい…と山梨の木に宿った母トラがクロボシに伝えた。言われたとおり実を埋めておくと、暑い日差しを受けて腐っていく実が甘酸っぱい香りを放ち、それが島じゅうに立ち込めた。その臭いをかいだ勝買州グループの人間たちは、自分たちのやっていることを猛省し、泣き出してしまう。そうして島から引き上げていったのである。
 山梨の実の不思議な力、山梨に宿った母トラの魂が、タイガーランドを救ったのだ。タイガーランドが救われたところで、クロボシが海を渡ってインドへ帰ることになる。


 この不思議な木の実は“食べた者を知恵づかせる”という意味で、アダムとイブが食べた知恵の樹の実が元になっている。神に禁じられた知恵の樹の実を食べて知恵づいたアダムとイブは、神によってエデンの園から追放されてしまう(『失楽園』)が、『タイガーランド』の劇中で島から追放されたのは、島を侵略しようとした悪人たちだ。アダムとイブが知恵の樹の実を食べたとき、自分らが裸でいることを恥ずかしいと感じるようになり、イチジクの葉で陰部を隠した。それに対して『タイガーランド』では、山梨の木の実の臭いをかいだ悪人たちが自分らの悪行を恥ずかしいと感じるようになり、良心の呵責にさいなまれて泣き出し、自ら島を去っていった。そんなふうに対比すると、人を知恵づける木の実の物語における役割の相似や差異がクリアに見えてきて興味深い。


 アダムとイブが知恵の樹の実を食べたというのは、人類が最初に犯した罪である。それは原罪と呼ばれる。神から食べることを禁じられていたのに、蛇(サタン)の誘惑によって食べてしまったのだから、神の命令に背いた罪である。そのためアダムとイブはエデンの園を追放され、その原罪ゆえにアダムの子孫となるすべての人類は罪を負うことになった。『タイガーランド』においてタイガーランドを追放されたのは、自然破壊という罪をおかそうとした人間たちだ。“罪をおかした者が楽園を出ていくことになる”という点でも、アダムとイブのエピソードと『タイガーランド』のエピソードはイメージが重なる。
 人間が行なってきた自然破壊は原罪とは言わないだろうが、人間であるがゆえにおかしてしまう根源的な罪であることにはちがいない。ヒトという種は、その誕生から現在にかけて、自然を破壊し続けてきた。自然を支配しようとしてきた。自然を操ろうとすること、破壊することで、人間は人間以外の動植物と自分らを区別し、より人間的になっていった。それが種としての進化であり、文明の発展であった。
 乱暴な言い方をすれば、地球上の自然にとって、人間がいなくなることこそが最高の楽園状態ではないか……。そんなことまで考えさせられる『タイガーランド』の結末なのだった。
 むろん、人間がいなくなればいいと考えることでは何も解決しない。『タイガーランド』という作品が、人間がいなくなればいいと訴えているわけでもない。そもそも、私も他ならぬ人間だ。人間の存在を否定するわけにはいかない。人間が存在することを前提としたうえで、自然との良好なつき合い方を模索していくべきだろう。
 そのことを踏まえたうえでもなお、私はこの作品の結末から“人間が人間であるがゆえに負った根源的な罪”というものを意識せずにはいられなかった。手塚先生が本作で描こうとした主題からズレた読み方かもしれないが、一人の主体的な読み手として私はそう感じた。



 最後に…。『タイガーランド』は「赤旗日曜版」1974年1月6日号〜12月29日号で連載された。手塚先生は、地味ながら「赤旗日曜版」でいくつか作品を発表しており、連載作品だけを挙げれば以下のようなものがある。(ほかにも読切作品やイラスト仕事などがある)
・『羽と星くず』1961年3月12日〜62年1月28日
・『タツマキ号航海記』1963年5月5日号〜64年2月16日号
・『八丁池のゴロ』1968年1月1日号〜12月29日号
・『タイガーランド』1974年1月6日号〜12月29日号