岐阜タカシマヤの手塚治虫版画展へ

 
 先日、岐阜タカシマヤで開催されていた「生誕90周年記念 手塚治虫版画展」を観てきました。この版画展は全国の百貨店などを巡回しており、手塚作品の版画やセル画などを展示・販売しています。
 非売品として『ロビンちゃん』(「少女の友」昭和29年9月号〜10月号連載)の原稿2ページ分などが展示されていました。
 展示作品の撮影はすべて禁止でしたが、撮影スポットとしてアトムが!
 
 
 ・アトムの身長がアピールされていました♪


 この「生誕90周年記念 手塚治虫版画展」の会場で「祝・傘寿記念 松本零士の世界展」が同時開催されていました。どちらかというと今回は「松本零士の世界展」のほうがメインだったようです。
 
 
 5月13日(日)には松本零士先生ご本人が来場し、トークショーが開催されました。私はこのトークショーに合わせて会場へ足を運んだのでした。近場にマンガ界の大巨匠がいらっしゃるのだからこれは行くしかない!と喜んで出かけました。
 松本零士先生のお話には、たびたび手塚先生のお名前が出てきました。
 たとえば、こんなお話です。


・戦後のマンガブームの中心に手塚治虫がいた。
・5歳のとき明石の劇場でアニメーション映画『くもとちゅうりっぷ』を観た。ずっと後年に手塚さんと会ったとき、同じ劇場で同じ日同じ時間にこの映画を観ていたことがわかって驚いた。(他の方から聞いたのですが、宝塚在住の手塚先生が大阪ではなく明石の劇場まで観に行ったのは、この当時関西では明石でしか『くもとちゅうりっぷ』が上映されなかったからだそうです)


 手塚関連のほかで印象に残ったのはこんなお話です。


・(明石在住時代)米軍機の機銃掃射があると、田んぼに埋まった弾を掘り出して遊んだ。当時はその弾が危険とは知らず叩いたりして遊んだ。戦争から帰還した父親に、それが爆発したらバラバラになって死ぬぞ、と怒られた。
・(愛媛在住時代)自分のいる高台より低い位置を米軍のグラマン機が飛んでいくのを見た。パイロットがこちらを見てニヤリと笑い、私もニヤリと笑い返した。
終戦の日は近所の川で泳いでいた。そこは坂本龍馬が脱藩のとき船で通った川だった。
関門海峡で潜ってよく魚を獲っていた。
・私の作品に国境はない。私は特定の宗教・思想・民族感情などを傷つけないように作品を描いてきたからだ。
石ノ森章太郎と私は同年同月同日生まれ。


 すでに知っている内容もあったのですが、先生ご自身の肉声で聴くと格別の喜びを感じられます。
(ここで紹介した松本零士先生の言葉は、正確な再現ではなく、私の記憶に頼った要約ですのでご注意を)