『ふたりは空気の底に』


 広島と長崎で原爆忌、という時節柄も汲みまして、8月の上旬にひらまつつとむ先生のマンガ『飛ぶ教室』を読み返しました。
 
 『飛ぶ教室』は「週刊少年ジャンプ」の1985年24号から38号にかけて連載されました。突然に核戦争が起きたとき偶然にも核シェルター内にいたおかげで生き残った何人もの子どもたちと一人の女性教師のサバイバル生活を描いた、異色のジャンプマンガです。強力な水爆によって破壊され汚染され廃墟化した世界…。そんな極限の絶望的なシリアス状況のなかで1980年代的なラブコメ描写が見られるのが、この作品の独特の読み味になっています。核や放射能といった重いテーマを扱い、登場人物たちが過酷な日々をすごしているだけに、ラブコメ的な軽みや陽気さに救われる瞬間もあります。
 核兵器の爆風で池袋にあるはずのサンシャインビルが埼玉の都市まで吹っ飛んでくるのですが、そのビルが地面に突き刺さったため、生きていくのに必要な“飲める水”が掘り当てられます。『未来少年コナン』のロケット小屋と同様の役割を果たしているのです。今回の再読では、そんなサンシャインビルのありようにインパクトと感動をおぼえました。
 『飛ぶ教室』というタイトルは、エーリッヒ・ケストナーの同名の児童小説から採ったものです。サブタイトルにも『夏への扉』とか『最後の授業』といったふうに小説の題名を使ったものがあります。ひらまつ先生が感銘を受けた小説たちへのオマージュですね。


 『飛ぶ教室』の“核戦争が起きたときたまたまシェルター内にいた子どもたちが生き残る物語”という要素に着目すると、手塚先生の短編『ふたりは空気の底に』を思い起こします。『飛ぶ教室』では学校の敷地内に核シェルターが造られていましたが、『ふたりは空気の底に』では博覧会で展示中だった宇宙旅行用のユニット・カプセルが結果的に核シェルターの役割を果たします。世界を滅亡に追い込んだ全面核戦争勃発時そのユニット・カプセル内にいた2人の赤ん坊(男子と女子)だけが生き残り、その閉鎖空間のなかで成長し思春期を迎え、やがて愛し合うようになります。そしてカプセルの外側にあるものに興味を持ち、屋外へ出て行くことに……。
 『ふたりは空気の底に』は、冒頭で描かれるグッピーのシーンがじつに印象的かつ効果的です。水槽内のグッピーたちはその環境のなかで充足し幸福に暮らしていたのに、人間が水槽のなかに煙草の吸殻を落としたことで、その逃げ場のない環境が一気に汚染され、グッピーたちは死に絶えてしまいます。そんな水槽内のグッピーのごとく、われわれ人間は“空気の底”という逃げ場のない環境下に生きてるんだなあ、とあらためて痛感させられます。水槽内のグッピーよりは空気の底に生きる人間のほうが逃げる手段を持っていることでしょう。宇宙船で地球外へ逃げ出すとか、それこそ核シェルターに逃げ込むとか…。しかし、そんな逃げ方ができるのは一部の人だけですし、宇宙へ逃げたところで生き残っていくのは困難でしょう。
 したがって、われわれ地球人の大半は、この空気の底に閉じ込められているといってもいいわけです。そんな逃げづらい環境が有害な成分によって全面的に汚染されてしまったら、水槽に有毒な吸殻を落とされたグッピーと同じ運命をたどることになります。そう思うと、核シェルターの普及を切実に望みたくなってきたりもしますが、それ以前に、この環境をこれ以上汚濁しないことが肝要ですね。
 『ふたりは空気の底に』といえば、中学生のとき夏休みの読書感想文の題材に選んだことがあります。現在以上に私が子どもの頃は“マンガとは教育に反するもの”という考えが根強く活字信仰の大人が多かったので、読書感想文でマンガを題材にするなんてけしからんことだったはずですが、感想文を提出しても先生から何も注意されませんでした。
 『ふたりは空気の底に』は、「プレイコミック」で1968年から70年にかけて発表された短編群『空気の底』シリーズのなかの一編です。『空気の底』シリーズについては以前当ブログで取り上げたことがありますのでご参考までに…。
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20120515