月の文明を描いた手塚マンガ

 昨晩(9/24)は十五夜中秋の名月でした。
 
 
 
 月にウサギがいる、という言い伝えがあります。月に映る影がウサギのシルエットに見えることから発した言い伝えでしょう。
 では、なぜ月にウサギがいるのか?その由来を語る説話があります。インドの仏教説話集「ジャータカ」のなかの一編です。その説話は、ウサギが自ら身体を焼いて飢えた老人の食物になろうとする内容で、手塚先生は『ブッダ』の冒頭あたりでその説話を描写しています。
 
 また、手塚先生の初期作『新編 月世界紳士』では、月にウサギがいるという言い伝えがなぜ発生したか?が説明されます。月のウサギの伝説が地球にあるのは、800年前にウサギ似の月世界人が地球に来ていてそれを地球人が見ていたからだ…と説かれるのです。
 

 月に人間が住んでいて高度な文明を築いている…という設定の手塚マンガといえば、『月世界紳士』のほかに『ノーマン』が思いあたります。5億年前、月では月世界人が暮らし文明が栄えていたが、他の星から来た侵略者(ゲルダン星人)との戦争に敗れ、あげくのはてに核爆発で月世界が全滅してしまった…というのです。いま地球から月を望遠鏡で覗くと、見渡すかぎりひび割れと穴と石ころだらけなのは、その戦争と核爆発が原因だったのです…。(月世界が全滅…と書きましたが、そうではないかもしれないという希望をかすかに残しながら『ノーマン』の物語は幕を閉じます)
 
 

 月を舞台にした手塚マンガということでは、『ザ・クレーター』の一編「クレーターの男」もとても衝撃的で印象深いです。月に月世界人が住んで高度な文明を築き…といった趣向のお話ではありませんが、『火の鳥』のコスモゾーンにも通ずる生命エネルギーが題材になっており、手塚先生の生命観が強く表れています。何より、ラストシーンの究極的な虚無感と孤独感がすごい。完璧な絶望状況なのに、美しい情感のようなものすら伝わってくるのもすばらしいです。
 
 

 手塚先生には、「今年も十五夜が近づいてきた」という文で始まるエッセイ『月をめぐる幻想』(「アサヒグラフ」1969年8月15日号)があります。そのエッセイのなかで「ぼくなどは月のあの明暗模様を眺めても、どうもクレーターの群れのイメージがちらついて、古来伝承の兎や月美人の姿を思いおこせない。二十世紀に生まれた人間の宿命であろうか…」と書いています。
 私も(手塚先生と一緒にするのは非常におこがましいのですが)子どものころはもっとくっきり見えていたはずの餅つきウサギが、今はなんだか見えなくなった気がします。そもそもそういうことを日常の中で意識しなくなった…と言ったほうが正確かもしれません。空に浮かぶあの月にウサギの姿を見たい、と日ごろから意識して願っていればまた見られるようになるでしょうか。