『アトム大使』


 まことに数多い手塚キャラクターのなかでも最高ランクの知名度、浸透度、人気を誇るのがアトムだろう。
 手塚治虫といえばアトム…という世間やメディアの風潮に手塚先生は抵抗感や葛藤をおぼえていたようで、そうした複雑な心情から、アトムに対して否定的なコメントを発することも幾度かあった。


 そんなアトムのデビュー作が『アトム大使』である。『鉄腕アトム』の前身的な作品で、光文社の月刊少年誌「少年」1951年4月号から52年3月号まで連載された。『アトム大使』が最終回を迎えた翌月号から『鉄腕アトム』の連載が始まっている。(単行本化のさい手塚先生は『アトム大使』を『鉄腕アトム』のワンエピソードとして扱っている)


アトム大使』の物語の始まりはこうだ。どこかにある“地球”という星が大爆発を起こした。この星の人々はロケットで脱出し、そのロケットを居住空間として2000年ものあいだ移住先の星を探して宇宙をさまよっていた。そうしてたどり着いた星が、もう一つの“地球”だった。(わずらわしいので、大爆発を起こした地球を「地球A」、もう一つの地球を「地球B」と便宜的に呼ぶことにする)
 2つの地球の様子はそっくりで、住んでいる人もそっくり。ケン一もタマオもお茶の水博士もヒゲオヤジもこの世に2人いるがごとき状態になる。両者の見分け方は耳の大きさ。地球Aの人々は耳が大きいのだ。これは、引力のない宇宙空間で長年すごしたことで体つきが変化してしまったためである。


 地球Aの人々は、地球Bに住むことになった。共存の道が選ばれたのだ。しかしそうなると、単純に見て地球Bの人口が倍に膨れ上がるわけで、食糧不足などの問題が心配された。科学省の天馬博士は、地球Aの人々の移住を無きものにするため、自分が開発した収縮薬Xで地球Aの人々をゴミのように縮めはじめた。それに怒った地球Aの人々は、地球Bに対して全面攻撃を予告。両地球人の存亡にかかわる深刻な事態がもたらされた。
 その対立を調停するため、平和の使節として派遣されたのがアトムである。まさにタイトルのとおり“アトム大使”なのであった――。


 こうして大まかにストーリーを見るだけでも、『アトム大使』が本格度の高いSF作品であることがわかるだろう。
“広大な宇宙には地球のような星がもう一つ(あるいは複数)存在する”というアイデア古今東西のSF作品で使われており、私は『ドラえもん』の「あべこべ惑星」や「のび太も天才になれる?」といった話を真っ先に思い出す。もちろん『アトム大使』は『ドラえもん』よりはるか前に描かれた作品である。




 手塚マンガのなかでも筆頭格のメジャーヒーローであるアトムだが、『アトム大使』ではまだ脇役的な存在だった。『アトム大使』は、リードキャラクターが物語を牽引するタイプの作品ではなく、手塚先生が描き下ろし単行本(赤本)で発表していたようなSF群衆劇に近い性質を持っている。『アトム大使』の連載時期は、手塚先生が赤本をメインフィールドとして活躍していた時代の末期にあたる。


アトム大使』の作中で、アトムの生い立ちが語られる。アトムは人造人間である。その生みの親(開発製造した主)は、先ほど名前を挙げた天馬博士だ。地球AとBの人々が共存をはかろうとするなか、それに反対し地球Aの人々を始末しにかかったマッドサイエンティスト的な人物である。
 天馬博士にはトビちゃんという一人息子がいたのだが、交通事故で亡くしてしまう。天馬博士の悲しみは深く、精神に変調をきたし、科学の粋を結集してトビちゃんの姿をしたロボットを造り出した。トビちゃんは科学の芸術品として、本物と変わらない状態で生まれ変わったのだ。
 ところが博士は、生まれ変わったトビちゃんの重大な欠点に気づく。トビちゃんは何年たっても成長しないのだ。博士は、本物そっくりなのに成長することのないトビちゃんを憎み、サーカスに売り払ってしまった。
 アトム誕生には、そんな秘密があったわけだ。
 子どもの事故死という不幸にさいした父・天馬博士の深い失意、亡くなった子どもを科学の力で再生しようとした科学者・天馬博士の天才性と狂気とエゴ、生まれ変わった子どもへ注ぐ愛情と成長しないその子に抱く憎悪、子どもをサーカスに売り払うという冷酷な行動……。アトム誕生の背景にあるものは悲しく重い。
 アトムの生い立ちの、なんと悲劇性を帯びていることか。


 そんな悲しい生い立ちを持ち、作中では脇役的な存在だったとはいえ、『アトム大使』のなかで読者から人気だったのがアトムだったという。そうした読者の反響を受けて、アトムを主人公とした『鉄腕アトム』の連載が始まったのが、「少年」1952年4月号からであった。やがてアトムは大人気のヒーローになっていくが、生まれながらに背負っている悲劇性はその後もつきまとい、アトムは葛藤し苦悩するヒーローでありつづけるのだった。