『ノーマン』


『ノーマン』は、初めて「週刊少年キング」に連載された手塚マンガである。手塚先生は「週刊少年キング」で以下のような作品を連載している。

●『ノーマン』昭和43年4月28日号〜12月22日号
●『鬼丸大将』昭和44年1月1日号〜6月29日号
●『アポロの歌』昭和45年4月10日号〜11月6日号

 けっして派手ではないが、琴線に触れるラインナップだ。


 月に人間は住んでいない。月に文明は存在しない。それは、われわれ現代人には常識的な事実である。
 それに反して、実は月にも人間が住んでいて文明が築かれていた!というのが『ノーマン』の根底を支える世界観である。月にも文明があるとする手塚マンガといえば、初期作品『月世界紳士』が思い当たる。月はいつも地球に対して同じ面を向けて回っているので、その裏面は地球から見えず、実はその裏面に月の都が存在している、という話である。いま現在も月の裏面に月世界人が住んでいる、という設定だ。
 それに対し『ノーマン』の設定では、5億年前月に人が住んでおり文明が栄えていたが、ゲルダン星人という侵略者との戦争に敗れ、月じゅうが核爆発にみまわれ放射能で覆われて全滅してしまった…ということになっている。月は5億年前に死の世界と化しているのだ。地球から月を望遠鏡で覗くと、見渡す限りひび割れと穴と石ころだらけなのは、その戦争が原因なのだった。
 そんな壮大で不思議な因果関係が『ノーマン』では描かれており、私の中にあるSF心をくすぐってくれる。



 主人公の中条タクは現代の地球に暮らす少年だが、あるとき、両親や見知らぬ2人の人物とともに月へ連れていかれる。それも、5億年前という途方もない過去の月へ。
 タクが月へ連れていかれたのは、彼に動くものを止める超能力があったからだ。月の上で長い歴史を刻んできたモコ帝国では、侵略者のゲルダン星人と戦うため、他のいろいろな星から超能力者を集めて特殊訓練所で任務につかせていた。現代の地球人であるタクは、5億年前の月の国の戦闘員にさせられたわけだ。時空を超えた強制徴用である。
 モコ帝国のトップに君臨するのは“ノーマン王子”。彼は、モコ帝国372代目の王になろうという人物だった。この作品のタイトルは彼の名から来ている。読者からの公募で決められたらしい。



“ノーマン王子が率いる月のモコ帝国と、科学力と超能力が優れているが残忍な性格のゲルダン星人の戦い”が本作のメインストーリーである。この戦争は特殊だ。というのも、あらかじめモコ帝国の敗北が決定している戦いなのである。モコ帝国が戦争に敗北する未来を、戦争の当事者たるノーマン王子もタクもすでに知っているのだ。
 にもかかわらずモコ帝国が敗北するその歴史をひっくり返そう…というのが、ノーマン王子の計画であった。この戦争は、歴史改変を目指している。実にSF的発想に満ちた戦いなのだ。



 特殊訓練所に集められた超能力者たちのそれぞれの能力や個性、彼ら彼女らのチームワークや軋轢といった人間関係も、読みどころのひとつである。特殊訓練所所属の隊員は、所長を含めて9人(のちに、コメディリリーフキャラクター“ヨロメキス”がアシスタント的な立場で加入する)。念動力、分身能力、音速能力、透視能力、再生能力など、それぞれに異なった超能力を持っている。戦隊モノの醍醐味がある…とまでは言わないけれど、集団ヒーローモノの要素があることは確かだ。


 特殊訓練所の紅一点“ルーピ”は、本作のヒロインである。地球人に似たかわいらしい女の子の外見をしているが、彼女は月人でも地球人でもなくスピカ人で、大ききな尻尾を有している。地球人のタクがサル族の子孫だとすれば、ルーピはカンガルー族の子孫なのだ。その設定も私のSF心を楽しませてくれる。



 本筋から見ればちょっとした寄り道的場面であるが、特殊訓練所のめったにない休日にモコ帝国の中心地“アローデ市”の繁華街へ遊びに行くくだりが私のお気に入りだ。アローデ市最大のデパートに並ぶ月の野菜は、地球では見たこともない形状をしている。地球人目線で見れば不思議な光景だが、それが月の人には普通の光景である。店内で特別割引の売出しが始まるとアナウンスされたとたん、ルーピが「キャ〜〜」と叫びながら嬉々として駆け出すカットは、異世界の光景の中に卑近な日常感をもたらしてくれて面白い。その後訪れる博物館の場面もいい。館内では、地球がどうなっているかを想像で再現した立体パノラマが展示されている。地球はまだ若い星で、月が大昔そうだったように今恐竜やシダ、ソテツなどがはびこっており、まだ人間はいない…などと館内で音声解説されており、その解説に触れると「ここは私が生きているこの現在より何億年も昔の世界なのだ!しかも月の立場から地球のことが博物学的に語られているのだ!」と時空を超えた視点に立って感銘をおぼえる。月の存亡を賭けたゲルダン人との戦争を軸に描いたSFアクションこそが本作の主旋律であるが、その主旋律から少し外れたところで、こうしたセンス・オブ・ワンダーに遭遇できるのがうれしい。



 月世界を侵略しようとしているゲルダン人は、科学力も超能力も武力も圧倒的な強さだし、そもそも歴史の運命では「モコ帝国(=月世界)の敗北・滅亡」は決定づけられている。そんな不利な戦況下で、ノーマン王子は自分らにあってゲルダン人にない力とは何かを模索する。
 それが、ひとことで言えば“愛”なのだった。
 ノーマン王子の悩みに、“スンスン僧正”という賢人がこう答える。
「あなたがたにはものを愛する心がある かわいいと思ったり美しいと思ったりなさけをかけたり敵まで愛することができる!」「ゲルダン人にはその心がないな やつらはただ残忍で氷のようにつめたいだけだ」「そこが人間とゲルダン人のちがいですわい」
 月や地球の人間にあって、ゲルダン人にないのは、“ものを愛する心”だというのだ。このくだりを読んだ私は、当ブログで『タイガー博士』を取り上げたときのことを思い出した。私はそこで、こんなことを書いた。

『タイガー博士』では、アリが“心のあたたかさ”を持てない存在として描かれ、「フランケンシュタインの巻」では、ロボットが“いい心”を植えつけることのできない存在として描かれている。手塚マンガは、人間の非人間に対する差別や、人間と非人間の対立などを描くことで人間がどうしようもなく有する理不尽さやエゴや醜さのようなものをあぶり出すことがよくあるが、ここでは、そんな人間と、人間ではない者(アリやロボット)とを区別する要素として“あたたかい心”“いい心”を提示している。そのような生まれながらの良心を持っていることが人間のすばらしさであるというわけだ。そして、その“良い心”は“悪い心”と表裏一体であることも、手塚マンガは冷徹に描いている。
http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20140414/p1

『タイガー博士』や『鉄腕アトム』の「フランケンシュタインの巻」では、人間と、人間に近いけれど人間ならざる存在とを根底的なところで区別するものとして“あたたかい心”“いい心”が示された。『ノーマン』で言及された“ものを愛する心”も、それと同様の意味を持っている。月や地球の人間とゲルダン人とを根っこのところで区別するものとして“ものを愛する心”が示されるのだ。
 さらに『ノーマン』では、こんなことも描かれる。「ゲルダン人になくって ぼくやきみにあるちから… それは「愛情のちから」だってスンスン僧正がいうんだ」「その「愛のちから」でも一番強いのは「親子の愛」だっていうんだ」「どんなに強いかはぼくたちは培養管から生まれたんだからわからない 「親」なんてないんだから」――
 これは、ノーマン王子が地球人のタクに語ったセリフである。人間にあってゲルダン人にないものとして“ものを愛する心”が示されたわけだが、その“ものを愛する心”の中でも“親子の愛”こそが最高に強い力だというのである。そして、その親子の愛は、地球人にあって月人にはないものなのだ。
 月の世界では科学が進歩して培養管から子どもが生まれるようになっており、親の存在も親子の愛も実感としては理解できない。だから親子の愛は、地球人にあって月人にはない力なのである。
 地球人のタクは親子の愛を知っている。いったい、そのことがどういう武器になりうるのか…。この場面の時点ではわからなかったけれど、物語がクライマックスに入った頃合にそれが力を発揮する。
 はたして、ゲルダン人との戦争の勝敗はどうなるのか、月は滅亡する運命から逃れられるのか…。物語は「終りなき歴史の終末」という最終章に向かって動いていく。