『グランドール』

初出:「少年ブック」1968年1月号〜9月号連載



 一風変わった“異星人による地球侵略モノ”といった風情の作品だ。
 この作品における侵略者(インベーダー)は、地球侵略にあたってあからさまに武力を行使してきたわけではない。何をやったのかといえば、“グランドール”なる人形を地球に大量にばらまいた。グランドール自体は味もそっ気もないデザインの小さな人形だが、人間そっくりに化けて活動することができる。何千万という人間化したグランドールが、すでに地球人にまじって生活しているという。学校にも警察にもマスコミにも、グランドールはまじっている。そして家族にすらも…。
 こんな真実を知ってしまったら、それまで普通に暮らしていたこの町が、社会が、世界が、目に映る景色は同じなのに急激に一変して見えるだろう。主人公の少年・哲男は、そんな衝撃を受けることになる。



 哲男の衝撃はそれだけでなかった。普通の人間として生きてきたはずなのに、哲男自身もグランドールであると教えられるのだ。自分を取り囲む世界の見え方が一変するばかりか、自分が自分であるというアイデンティティまで大きく揺らぐことになるのである。
 グランドールが化けた人間は、他人の意見に従ってしまいがちな性格をしているという。哲男は、その性格がまさに自分に当てはまっている、と感じる。彼は、学級委員の会議で「みんなの意見と同じです」という意見くらいしか言えず、時おり「自分でなくなるような… 誰かにあやつられてるみたいな気持ち」になることがあるのだ。自分がグランドールだと言われてしまって、それは非常に唐突な指摘なのだが、思い当たることがありすぎる…。でも自分がグランドールだなんて、信じたくない…。哲男の葛藤が始まる。
 それをきっかけに哲男は、人の言いなりにならず、自分が正しいと思うとおりに行動しよう、と考えるようになる。そのために空手部に入り、理不尽で厳しいしごきに耐えて、自己鍛錬することにもなった。空手部のくだりは、手塚先生が得意としない“スポ魂”的展開である。この場面について手塚先生は次のように述べている。

途中におかしな空手場面がはいったりしていますが、これは読者にとっつきのわるいSFもののカムフラージュで、事実、こういった身近なサービスをすると、その時だけふしぎに人気が上がるのです。こういうたぐいを、ぼくはヌカミソ・サービスと呼んでいます。SFマンガが一部のマニア受けに終わらないためにする、やむを得ない妥協です」(手塚治虫漫画全集『グランドール』あとがき、1978年、講談社

 ヌカミソ・サービスとは、スポ魂的・浪花節的なものに反発や苦手意識をおぼえていた手塚先生らしいシニカルなネーミングだ。「SFマンガが一部のマニア受けに終わらないためにする、やむを得ない妥協」の必要性を手塚先生が痛感したのは、1956年から57年にかけて「おもしろブック」別冊付録でライオンブックスシリーズを描いたときだったのではないか。このシリーズの各短編作品は手塚先生が気合と矜持を込めて執筆しており、のちに戦後日本SFのルーツとさえ評価されたのだが、発表当時は子どもたちにまったくウケなかったという。その苦い経験が教訓となって、SF作品には妥協的なサービスが必要、と手塚先生は考えるようになったのだろう。
 とはいえ、『グランドール』における“ヌカミソ・サービス”は、アイデンティティ崩壊の危機に瀕した哲男が自分の意見を持った確固たる存在になろうと努力する過程と密接に結びついており、単なる付け加え的なサービスシーンでは終わっていない。むしろ、哲男が強くなるために必要な試練だったと思う。



 地球のいたるところにグランドールを紛れ込ませた侵略者であるが、その侵略者の地球侵略方法がちょっと迂遠というか独特で、それがこの作品特有の雰囲気を醸し出している。
 普段のグランドールは、人間社会に紛れ込んで普通の生活を送っている。しかし、いざとなると侵略者が発する電波によってグランドールに指令が届き、その指令に従っていっせいに行動を起こす。
 その“いざ”というのは、地球人がデモを起こすときである。どんな目的のデモでもかまわない。そのデモの群衆の中に多くのグランドールが紛れ込んで場を煽り立て、暴動を起こさせ、人間同士が憎み合うような状況をつくりだそう、という企てなのだ。なぜ侵略者がそんな方法を取るのか、グランドールたちも知らないという。
 侵略者の目的が地球侵略だとするならば、侵略者がそんな方法を取る理由について「人間社会の中にこっそりとグランドールを増やしていき、やがて人間社会を乗っ取っていこうとしているから」だとか、「人々に暴動を起こさせ、憎しみ合わせ、不安状態にし、つけ込む隙を広げていこうとしているから」といったふうに推測できるのだが、本作では侵略者が最終的に何を目指しているのか明らかにされない。侵略者が本作の中でやってきたことは、何らかの目的のための準備段階、実験とか調査のような行為に見える。
 そんなこともあって、私は『グランドール』に対して、一風変わったSFマンガ、という印象を抱くのである。



『グランドール』の連載を始めるにあたって手塚先生が「侵略者がデモを利用する」という着想を得たのは、当時学生運動がさかんで激しいデモがよく行なわれていたからだ。本作ではデモの場面になると、豆粒のような人間が数多く集まっている大群衆シーンが描かれる。たとえば、冒頭には中国の国慶節の場面があって、見開きで大群衆が描かれている。読んでいると、とにかく大群衆のシーンが印象に刻まれる。
 グランドールがデモに紛れ込んで人間同士を憎しみ合わせることに成功した例として、グランドールの一人がこんなセリフを発している。
「これで成功したのは中国とベトナムだった あれはうまくいったからな」
 ここで言う中国の成功事例とは、文化大革命が起こったこと、ベトナムの場合はベトナム戦争のことと思われる。こういうところにさりげなく手塚先生の風刺精神が込められている。
 本作において手塚先生は“デモ”という行為自体を批判的にとらえているわけではない。真剣な訴えを投げかけるデモに乗じて現れる無目的な野次馬的人間たちの集団化に警笛を鳴らしているのだ。哲男の父親のセリフによって、そのことが示される。
「なあ哲男 おとうさんは北京でものすごい文化大革命を見たし 全学連と警官のたたかいも見た どっち側にもそれなりのわけや目的があってやってるからいい」「だが中にはあんまり目的をもたずに ただくっついて行くやつもいる……これがあんがい人数が多いんだ まだ「ヤジウマ」という名のあいだはいいんだが……」「おおぜいになるとこんな連中でもおそろしいことになる 一番にくらしいのはこの連中のことだ 哲男 侵略者はグランドールを使って……そんな人間をうんとこさ産みだそうとしてるんだよ」
 ここでは、目的もなく騒ぎに乗じてくっついてくるだけの人間が多数化することの恐ろしさが語られている。この考え方は、自分の意見を持たず優柔不断だった哲男が、アイデンティティの危機をきっかけに自分の意見を持って正しいと思うことやるようになるこの物語の精神と強く結びついている。自分の目的や意見を持たないで優柔不断・意志薄弱に生きる人々へ自省を促す精神である。



 本作のキーパーソンは、なんといっても柏葉子だろう。彼女は主人公の哲男にグランドールの存在を教え、哲男がグランドールであることを伝える人物である。自身もグランドールであるという。また、かわいいヒロインであり、哲男のガールフレンドでもある。哲男がグランドールに対抗するときの協力者でもあった。哲男がグランドールの事件にかかわったり、自分を鍛錬して強くなろうとしたのは、彼女と出会ったからだ。葉子というキャラクターは、主人公を動かす役割を担っているのだ。
 物語の最後になって、ある真相が葉子の口から明かされ、驚かされる。『グランドール』は葉子の掌の上で動かされていた物語であったのか!と叫びたくなるほどに。