『のらくろ』の影響力

 
 少し前に名古屋の古書店で「少年倶楽部」復刻版(昭和45年復刻)が売っているのを見つけ、昭和6年の新年号と8月号を購入しました。
 昭和6年新年号は『のらくろ』(田河水泡・作)の連載第1回が載った記念すべき号です。のらくろが「私は、のら犬の黒、つまり、のらくろといふ者です」「兵隊になつて大いに活動したいのです。入れてもらへますか」と猛犬連隊への入隊を志願するところから話が始まっています。


 手塚先生は幼少のころ『のらくろ』の愛読者で、大の田川水泡ファンでした。手塚作品に影響を及ぼした先行作品は多々ありましょうが、なかでも非常に大きな影響力を持っていたひとつが『のらくろ』でした。“手塚治虫”にとって『のらくろ』は格別に重要な作品なのです。
 手塚先生は「国際写真情報」1967年8月号の誌面で田河水泡先生と対談をしています。そのときの手塚先生の言葉を見てみましょう。(引用した手塚先生の発言内に出てくる「先生」とはもちろん田河水泡先生のことです)


「こういう肉筆回覧誌を作っちゃ友だちに見せていました。この中に田河水泡という名前が出てくるんです。先生の絵をまねて描いています。先生のマークであるおたまじゃくしまで入っているんですよ」(引用者註:「こういう肉筆回覧誌」とは、手塚先生が小学生から中学生にかけて作成したマンガの肉筆回覧誌のことです。糸でとじた小冊子でした)
「先生のものは一番最初のものからすべていわゆる愛蔵用と愛読用と二つありまして、愛読用は隅から隅まで丹念に研究しつくしました」
「いまのスターの付け人みたいな形で、田河先生のせめて部屋のお掃除でもしたいというようなことまで考えました」


 いかがでしょうか。手塚先生がどれほど田河水泡先生に心酔し私淑していたかがわかりますね。
 『のらくろ』が手塚作品へ及ぼした影響の具体例として、のらくろの耳がアトムの髪型のヒントになった、というものがあります。あれ!?アトムの髪が2本の角のようにピンと立っているのは、手塚先生の風呂上がりの髪がモデルではなかったのか?という声も聞こえてきそうです。
 それはその通りです。
 手塚先生の髪は天然パーマで、風呂から上がって髪の毛を乾かすと耳の上が立ってしまい、それをヒントにアトムの髪型をデザインされたのです。
 そのうえで手塚先生はこんなこともおっしゃっています。
「潜在意識みたいな形でのらくろの耳の立っている絵があって、それがどうもアトムのヒントになったんじゃないかと思います」
 手塚先生は、耳の上の髪がピンと立った状態を見た人から「のらくろに似ている」と言われたことがあるそうです。そうした体験も手伝って、のらくろの耳が潜在的なかたちでアトムの髪型のヒントになったと自己分析したのではないでしょうか。


 手塚先生の『のらくろ』に関する言葉といえば、1967年に発行された講談社のらくろ漫画全集』で発表された「“のらくろ”の魅力」も見逃せません。
「少年時代、何百冊もマンガ本を買い揃え、特に田河さんの作品を熱心に模写し練習したぼくは、ぼくなりに田河タッチの魅力の秘密のようなものを探り得たつもりでいるし、それだけに田河水泡作品となると、ちょっとうるさい自称“権威”のつもりでいるのである」
 と自負する手塚先生が、『のらくろ』をはじめ田河水泡作品について分析的に論じています。

 
 ・少年倶楽部文庫『のらくろ』1〜4巻(1975年〜76年、講談社)。第3巻の巻末に手塚先生の「“のらくろ”の魅力」が再録されています。


 また手塚先生は、雑誌「丸」1984年2月号で『のらくろもどき』という4ページののらくろオマージュマンガを描いています。水木しげる藤子不二雄石森章太郎赤塚不二夫ちばてつや他さまざなな先生がたが『のらくろ』を題材とした読切マンガを描いていく「ぼくの『のらくろ』」という企画が「丸」誌上で行われました。手塚先生の『のらくろもどき』は、その企画のなかで発表された作品のひとつです。