『モンモン山が泣いてるよ』『ゴッドファーザーの息子』


 前のエントリで、ジャンプコミックス手塚治虫 THE BEST』第1巻収録の短編作品『1985への出発』と『ZEPHYRUS』を取り上げた。
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20140524


 今回は、その続き。同書収録の以下の2作品について語りたい。

・『モンモン山が泣いてるよ』(「月刊少年ジャンプ」昭和54年1月号・読切)
・『ゴッドファーザーの息子』(「別冊少年ジャンプ」昭和48年1月号・読切)

 どちらも主人公は手塚治虫先生自身である。『モンモン山…』のほうは「手塚」という名前ではないが、顔ははっきりと手塚先生である。これらの作品は、手塚先生の少年時代の体験を脚色した半自伝的マンガなのだ。


●『モンモン山が泣いてるよ』
 昭和11年、秋の出来事である。主人公の名は“シゲル”。ドジでチビで弱虫で、何かにつけてからかわれる小学4年生だ。
 シゲルの級友のあいだで“ポプラ相撲”が流行っていた。ポプラの葉柄を使った対戦型の遊びだ。自分の葉柄と相手の葉柄を引っかけて引っぱり合い、相手の葉柄をプチっと切ってしまえば勝利である。私も子どものころ、ポプラではなかったけれど、別の雑草の茎で同じような遊びをしたことがあって懐かしい。
 シゲルはポプラ相撲でも負けてばかりだった。なんとか勝って見返してやりたいと、ポプラを獲りに“紋紋山”と呼ばれる裏山へ行く。この裏山は、宝塚時代の手塚邸の裏山がモデルだろう。
 裏山の奥に“蛇神社”という小さなヤシロがあった。蛇神社の境内に大きなポプラの木がはえており、シゲルはそこでポプラの葉を物色したのだ。ここに出てくる蛇神社は実在の場所で、私は足を運んだことがある。そのとき撮った写真がこれだ。
 
 
『モンモン山が泣いてるよ』の劇中では、蛇神社は取り壊されることになるが、現実にはこうしてまだ存在しているのだ。今は周囲に住宅が建っており、道路から隠れるようにひっそりと境内がある。とても小さな神社だ。私が行ったときは鳥居が倒れていた。


『モンモン山が泣いてるよ』に登場する人物で主人公のシゲルを除いて最も印象的なのは、シゲルが蛇神社で出会った“ヘビの精”である。ヘビの精といっても何か超自然的な存在ではなく、生身の人間の男性である。彼には蛇神社のヘビが取り憑いている、と本人や彼の家族が言っており、近所では頭がおかしい人物として白眼視されている。見た目には、はかなげな美男子だ。
 ヘビの精とシゲルは仲良しになり、山のなかで2人してよく遊ぶようになる。ヘビの精はクマゼミを捕ってくれたり木登りを教えてくれたりと、シゲルにとって頼もしくありがたい友達になってくれた。ヘビの精は、大人の社会には不適応な人物だったが、自然を愛する子どもとは波長が合ったのだ。その意味でヘビの精は、子どものような大人であった。
 そんな人物だから、常識人であるシゲルの母親は2人の交遊をやめさせようとした。ヘビの精は、シゲルが暮らす界隈では、かかわってはいけない人物なのだ。戦争が始まる前に戦争が起こることを予言したり、戦争が始まればいずれ日本が負けると言ってしまったり、そのご時世では要注意人物と見なされる言葉を発しており、この点が大人たちからしてみれば特に問題だったのだろう。
 同じコミュニティ内に住んでいながら異端視されたり疎外されたりする存在は、手塚マンガに付きもの、というくらいたびたび登場するが、ヘビの精もその系譜といえそうだ。


 ヘビの精が予見したとおり実際に起こってしまった戦争は、蛇神社という場所もヘビの精の命も奪ってしまう。軍用道路を通すため蛇神社は破壊され、ヘビの精は戦争へ駆り出されて戦死した。シゲルは、愛すべき大事なものを戦争によって一挙に剥奪されてしまったのである。大事なものを容赦なく奪っていくのが戦争なのだ。
『モンモン山が泣いてるよ』というタイトルは、人間の手によって元の姿を失っていく紋紋山が発する悲痛な叫びを意味している。紋紋山の悲鳴に耳を傾けられるような感性を失いたくない、と切に思う。



●『ゴッドファーザーの息子』
 この作品の主人公名は“手塚治”。手塚先生の本名がそのまま使われている。キャラクターの顔も名前も、手塚先生なのだ。
ゴッドファーザーの息子”とは、手塚と同じ中学に通うバンカラな少年“明石”のことである。明石の父親が有名なヤクザ組織・明石会の総長だから“ゴッドファーザーの息子”というわけだ。巨体の持ち主で応援団長でもある明石は、一般の生徒たちから恐れられるばかりか、ラグビー部のような運動部まで牛耳っていた。手塚とは正反対のタイプである。
 そんな水と油のような手塚と明石が仲良くなって、彼らなりの友情をはぐくむ…というのが、この作品のおおまかな内容だ。


 手塚の学校で全校生徒参加のマラソンレースが行なわれることになった。ビリから30人くらいは、特別訓練所に入れられてしごかれるという。手塚はどうせ自分はビリだから訓練所に入れられる、と落ち込む。それを見た明石は、おれが手塚を勝たせてやると宣言。明石がマラソンレース本番で手塚に伴走しながら叱咤激励してくれたおかげで、手塚は奇跡的に10等に入ることができた。
 手塚と明石が手を握り合って歓喜する場面には、胸のすくような感動がある。2人の友情物語がマックスに達した瞬間――。それを目撃することに、さわやかな興奮がともなった。「手塚、よくやった!」と私も思わず声をかけたくなった。


 現実の手塚先生の小中学時代、泉谷迪さんという同級生がいた。その方の著書によると、北野中学時代に“断郊競走(クロスカントリーの直訳)”なる行事があって、『ゴッドファーザーの息子』で描かれたマラソンレースは、この断郊競走がモデルになっているようだ。ただし、“ゴッドファーザーの息子=明石”のモデルになるような生徒はいなかったという。北野中学では、上級生が下級生を物理的に制裁することはまったくなかったのだ。


 手塚と明石の友情を引き裂いたのは、戦争だった。明石は予科練を受けて中学をやめ、昭和20年フィリピンで敵艦に突っ込んで自爆した。そのことが、1ページちょっとであっさりと描かれる。直前のコマで手塚と明石が手を握り合って喜ぶ感動シーンを読んだばかりとあって、明石戦死の報は唐突かつ簡潔でありながら、そこからもたらされる喪失感はとても大きい。手を握り合う歓喜の場面と明石戦死の報のその落差に私はあっけなさを感じつつ、胸の内に流れ込んでくる痛みや寂しさをせき止められなかった。