『1985への出発(たびだち)』『ZEPHYRUS(ゼフィルス)』

 
 今回は、ジャンプコミックス手塚治虫THE BEST』第1巻(集英社、1998年)に収録されている短編作品について書こうと思う。


手塚治虫THE BEST』は、全部で20巻まで刊行されている。講談社手塚治虫漫画全集など他のレーベルで読める作品ばかりが収録されているが、このシリーズの魅力は“新書判”で手塚先生の短編・中編マンガをいろいろと読めることだ。“少年マンガの単行本は新書判”というのが私の原風景的な体験だし、今でも“少年雑誌で発表されたマンガはまず新書判で単行本化”が定番のルートだから、このサイズで読めることにそこはかとなく喜びを感じるのである。


 そんな『手塚治虫THE BEST』シリーズの第1巻には、手塚先生の戦争体験に基づいた短編マンガが6編収録されている。太平洋戦争時のあまりにもつらかった体験から、手塚先生は戦争の悲惨さ、理不尽さをたびたびマンガのなかで表現してきた。手塚マンガに込められてきた大きなメッセージのひとつに“反戦”がある、というのはよく指摘されることで、私もそのとおりだと思うが、私の感覚では“反戦”というより“嫌戦”といったほうがもっとしっくりと来る。もちろん手塚先生は戦争に反対しているのだが、その根底に「戦争なんてもう絶対に体験したくない」「あんな嫌なものはない」という戦争への素朴な嫌悪感があって、私は手塚マンガからその“感情”をとても強く感じるのだ。


 手塚先生の描いた数多くの“嫌戦”マンガのなかから『手塚治虫THE BEST』1巻では、少年雑誌で発表された6つの短編が選ばれている。本書のカバー見返しには、手塚先生のこんな言葉が引用されている。

世の中で、なにがいちばんみじめかといって、戦争ほどみじめなものはない。
戦争とは、かっこいい兵器がでてきて、いさましい突撃があって、飛行機の決闘があって……とワクワクする人がいる。
でも、ほんとうの戦争はそんなもんじゃない。あなたのあたまの上にたまがおちてきて、あなたがこっぱみじんになって、あなたが死ぬのですよ。それも戦争をする人しない人にかかわらず、誰でも死んでしまうのですよ。

 この言葉を読めば、手塚先生がどれほど戦争でつらい体験をし、戦後も一貫して戦争を嫌悪し、戦争の悲惨さを子どもたちに語り継がねばならないという信念を持っていたかがわかる。
 手塚マンガは娯楽である。手塚先生は娯楽マンガの天才的な職人だった。読者が楽しんでくれたら、それが何よりだっただろう。私個人にとっても、手塚マンガはまず魅力的な娯楽なのである。
 それを前提として、手塚先生は自作品のなかにさまざまなメッセージを込めてきた。そのことに関する手塚先生の発言を引用しよう。

僕は今までたくさん漫画を描いてきましたけれど、漫画にはお話がついています。そのお話はいい加減なお話じゃなくて、できたら僕がこういうことを子どもたちに訴えたいな、と思う一つのテーマみたいなのがあって、そのテーマを僕はその漫画の中に入れたわけ。だからそのテーマを読んだ子どもたちは、読者が「わっ、手塚治虫ってこういうことを言いたかったのか、この漫画はこういうことを言いたかったのか」と受け取ってくれる、これが僕の漫画の一番大きな強い点だと思うんです。(朝日賞受賞記念講演 1988年2月13日 於・有楽町朝日ホール

初期の私の作品には、当時の私の人生観や一見哲学ふうのテーマを、もろにメッセージとしてうちだした作品が多くて、それが、やはり子どもたちには、難解ながら琴線をくすぐったのではないかと、これも自負しています。(第三一回子どもを守る文化会議 1986年3月1日)

 このように、手塚先生は自分のマンガに子どもへ向けたメッセージを込めてきたわけだが、そうしたメッセージのなかでも「戦争が嫌だ」という思いは、最もストレートで、最もエモーショナルで、最も実体験に根差したメッセージだった、と私は感じる。
 私は戦争体験者ではないが、戦争への忌避心は非常に強い。理屈よりも何よりも「戦争なんて嫌だ」という感情が先立っている。私のように体力がなく、どんなことでも戦うのが苦手な人間にとって、軍隊なんてところは地獄だろうし、軍隊的なものが幅をきかせる社会なんてまっぴらである(現在国防のために頑張ってくださっている方々への敬意と感謝の念は持っているけれど)。
 そして戦争とは、人が人を殺す行為である。自分自身や自分にとって大切な人が殺されるかもしれない。自分の知らない人が殺されるのだってつらい。国家を守るため、世界平和の秩序のために軍事力が必要なのはわかるが、それは絶対に戦争を起こさないための力であってほしい、と願うばかりだ。
 私はそんな思いを抱いているから、手塚先生の描く戦争体験の描写が胸に深く刺さる。こんな体験はしたくない、と痛切に感じる。手塚先生の「戦争が嫌だ」という気持ちに、私の心は強くシンクロするのである――。



 ここからようやく『手塚治虫THE BEST』1巻収録作品について具体的に語っていくことになるが、今日は全6作品のうちから『1985への出発』(「月刊少年ジャンプ」1985年7月号)と『ZEPHYRUS(ゼフィルス)』(「週刊少年サンデー」1971年5月23日号)の2編を取り上げたい。(他の収録作品は後日…ということで)



●『1985への出発』
 本作は、敗戦してすぐの焼け野原と化した東京の街が舞台。街には戦災孤児があふれている。13歳のカズオ、17歳のキミコ、6歳のテツは、そんな街で偶然出会った。3人とも戦災孤児だ。自分たちの親を殺し、自分らを悲惨な状況に追いやった戦争を心から憎んでいる。
・カズオ「あんな戦争おっぱじめたヤツ ブッ殺してやりてえ」
・キミコ「あたし もう戦争はぜったいイヤ おかあさんを殺したもん 一生にくむわ」
 こうした登場人物たちの心情吐露は、手塚先生の戦争に対する嫌悪感が直情的に表明されたものだろう。


 3人は、老占い師から“将来日本は一等国になり、あなたたちは大金をつかむ”と告げられ、“そんな未来の日本を見に行かないか”と持ちかけられる。そして、老人に指示された路地を通って、40年後(1985年)の日本を訪れることになる。
 そう、この物語はタイムスリップものなのだ。


 このタイムスリップによって、戦争が終わったばかりの1946年と、戦後40年が経過した1985年の東京の風景が対比される。アメリカ兵による浮浪児狩りが行なわれ、着るものも食べるものもろくになかった1946年の東京が、1985年には見違えるような景色に変わっていた。大きな山みたいなビルが建ち並び、人々はひしめき合い、誰もが豊かそうなのである。
 この2つの景色を単純に見れば、1985年の東京は40年前と比べ別天地、パラダイスと感じそうなものだが、カズオら3人の目には、そうは映らなかった。
 その豊かに発展したかに見える未来の東京では、玩具の兵器やコンピュータゲームで殺し合いのような遊びをする子どもたちの姿が頻繁に見かけられた。戦争はとっくに終わっているのに、戦争ごっこが流行っていたのだ。戦争を心の底から憎んでいる3人には、それは狂った世界にしか見えなかった。あんなに悲惨で大嫌いな戦争を、たとえ遊びとはいえ子どもたちが嬉々としてやっている光景は、3人にとって信じがたいものだったはずだ。
 私は実体験としての戦争は知らない世代だが、それでも思春期のころ、こうした殺し合い風の遊びが好まれることに疑問を感じていたことがある。自分も含め、なぜそういうことに面白さを感じてしまうのだろうかと…。疑似的な殺し合いを面白いと感じてしまう人間の本性を嘆いたりもした。
 だから、戦争をじかに体験し、戦争が終わってもつらい思いをしている3人が、1985年の東京を狂った世界だと感じるのは無理もない、と得心できる。私が当時感じていたその疑問は、自分のなかで解決したわけではなく、だからといってその疑問にとらわれ続けることもなく、まあそんなもんだろうと、問題を忘れたかのように大人になってしまった。そんな私に、もう一度当時の疑問を呼び起こさせるのが『1985への出発』なのだ。


 カズオら3人から見たら狂った遊びとしか思えないものを流行らした大元が、じつは大人になった当の3人だった――。その真相は、本人たちにとって衝撃的な皮肉だったろう。ここで詳しく書くことはよすが、最終的に3人は、そんな未来にならないよう、ある決断をする。それは3人にとってつらい選択だったし、その選択によって未来が変わる保証もないのだが、3人の決断に私はエールをおくりたくなった。



●『ZEPHYRUS(ゼフィルス)』
 この作品は、冒頭の大ゴマで、昭和20年のB29による空襲シーンを描いている。最後まで読めば、戦争とはじつに恐ろしくて無情なものだと教えてくれる。だが、ストーリーの主旋律は、手塚先生の昆虫趣味である。戦争が嫌なものであることを訴えた作品ではあるけれど、その訴えに到達するまでに、主人公の中学生の昆虫マニアっぷりがたっぷりと描かれるのだ。もちろん、彼の昆虫マニアっぷりは、手塚先生自身の体験が投影されたものである。


 タイトルの“ゼフィルス”とは、シジミチョウ科のある一群につけられた名称だ。日本産は25種。樹上性で、美しく珍しい種がいるためマニアが多いという。作中の説明を借りれば「ゼフィルス……それはギリシャ神話に出てくる西風の精のことで ちいさな妖精のような蝶なのでこの名がついているのだ」「緑色のやら黄色いのやらいろいろあるが たいてい高い梢なんかにかくれるようにとまっている」とのこと。
 主人公の中学生は、昆虫を集めるのが趣味で、特に蝶が好き。なかでもゼフィルスを血まなこになって追いかけており、そのゼフィルスのなかでも珍しいウラジロミドリシジミ(略称ウラジロ)をつかまえたいと日々探していた。
 戦時中に虫捕りにかまけていれば周囲から白い眼で見られるのは避けられないが、彼はそんな白眼視などかまわず好きなことをやっていた。もう虫が好きで好きでたまらない、ウラジロをつかまえることに青春を賭けている、というくらいの強い情熱が感じられる。
 だから、ウラジロを見つけたときの彼の感嘆の表情が大ゴマのアップで描かれたことには、深く納得できる。彼にとってウラジロとの遭遇は、大ゴマで描かれるに足る重大事なのだ。その大ゴマのあと2ページ強にわたって描かれるのが、彼とウラジロによる、追う側と逃げる側の駆け引きである。その駆け引きには、息詰まる緊張感があって目を奪われる。


 主人公が住んでいるのは山林に囲まれた村で、蝶だけでも100種類がいたという。昆虫マニアである彼には絶好の環境だ。そういう環境だからこそ、彼の昆虫マニア度がますます高まったのだろう。
 ところが、この物語では最後に彼が愛していた裏山の森がB29の爆撃によって焼失してしまう。この結末に、戦争の無情さを感じざるをえない。虫が好きで好きでたまらない少年が虫をつかまえ、虫とたわむれていたその環境が、無残にも焼き尽くされてしまったのだ。戦争は人間の命や都市の人工物を壊すだけでなく、森の木々やそこに生息する昆虫をも破壊するのである。人間のエゴを突きつけられ、愕然とするばかりである。
 つくづく戦争は嫌なものだ。


『ZEPHYRUS』は、主人公の昆虫マニアっぷりを描くとともに、その主人公が脱走兵と出会うエピソードも入れ込んでいて、そのエピソードもまた戦争の非情さを我々に伝えてくれる。