『紙の砦』『すきっ腹のブルース』


ジャンプコミックス手塚治虫 THE BEST』第1巻に収録されている短編マンガのうち、これまで『1985への出発』『ZEPHYRUS』『モンモン山が泣いてるよ』『ゴッドファーザーの息子』の4編について書いた。

 ・『1985への出発』『ZEPHYRUS』
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20140524

 ・『モンモン山が泣いてるよ』『ゴッドファーザーの息子』
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20140526

 同書には、ほかに以下の2編が収録されている。

・『紙の砦』(「週刊少年キング」1974年9月30日号・読切)
・『すきっ腹のブルース』(「週刊少年キング」1975年1月1日号・読切)


●『紙の砦』
 手塚先生の北野中学時代の体験をモデルにした自伝的マンガである。昭和19年から20年8月15日の終戦までのエピソードが綴られている。主人公名は“大寒鉄郎”。“てづかおさむ”の姓と名をひっくり返してモジったネーミングだ。


 戦時下、学校へ行っても朝から竹やり訓練や防空壕堀りをやらされ、教官に睨まれれば特殊訓練所へ入れられる。教官は高圧的で暴力的、好きなマンガはこっそり描くしかない。そんな嫌な嫌な嫌な学校生活が描写される。“戦争は嫌だ”という手塚先生の思いが各場面から伝わってくる。私もその思いに心から共鳴する。戦争というものは、戦地における実戦が過酷なのはもちろん、『紙の砦』で描かれたように、銃後の人々の生活をもまた悲惨なものにする。その悲惨さの種類はいろいろとあって、私が『紙の砦』を読んで特に感情的に“嫌だ”と思ったのは、世の中がマッチョな考え方に支配されていくことだ。肉体的な強さが理不尽なまでに求められ、弱い者は蔑視されたり懲罰を与えられたりする。教官や上役や先輩が不合理なレベルで威張り散らしており、強権的で、暴力的。マンガを描くような文化的なふるまいすれば「このご時世になにをやっているんだ」と叱責され、そのふるまいが強制的に抑圧される。私のような、運動能力が低く、文化系的なことが好きな人間にとって、そんな異常にマッチョな世の中は地獄絵図である。
『紙の砦』には、戦争の恐ろしさや惨たらしさをもっと直接的に感じさせる場面がある。それはたとえば、空襲で焼ける街の景色だったり、おびただしい数の焼死した遺体だったりする。10代のころこの作品を初めて読んだときは、そんな空襲や遺体の描写に衝撃を受けた。手塚先生の通常の絵柄がシンプルな丸みのある線で描かれているだけに、タッチの異なる遺体の山の描写がより際立って私の目に迫ってきた。
 それでも本作において私の戦争への嫌悪感を最も感情的に掻き立てるのは、異様にマッチョ化した社会状況や人間関係の描写なのだ。


 そんな地獄のごときご時世に、大寒鉄郎はマンガ執筆をやめないことで抵抗した。これが本作のタイトル『紙の砦』の所以である。
 直接面と向かってなんらかの敵や権力と戦ったわけではないけれど、大寒はマンガを描き続けることで自分の好きなことを見失わず、マンガなど描いてはいけないというその時代の圧力に抵抗したのだ。


 殺伐とした状況のなか、この物語に華やぎを与えてくれるのが、本作のヒロイン・岡本京子である。彼女の美しさ、オペラ歌手になりたいという夢、大寒鉄郎との淡いロマンスが、この物語を読む者の心を照らしてくれる。
 それなのに戦争は、彼女の美しさも、夢も、大寒との関係も、容赦なく奪っていった。戦争が終わり、自分が生きのびたこと、これから遠慮なくマンガを描けることに大喜びする鉄郎。その喜びを分かち合おうとした京子の顔には、痛々しく包帯が巻かれていた。戦争が終わっても、京子の夢は奪われたまま戻ってこない。うなだれる大寒と、後ろ姿の京子。この気まずい雰囲気に、私はいたたまれなくなった。
 大寒の“紙の砦”による抵抗は、大寒が生きのび、これから自由にマンガを描けるようになったことで勝利をおさめたといえるだろう。しかし、京子を目の前にしては、その勝利の喜びは複雑なものにならざるをえない。ただ喜んでこの物語を読み終えることはできないのだ。



『紙の砦』は手塚先生の実体験をモデルにした自伝的作品だが、脚色や誇張をふんだんにまじえている。そこで、本作で描かれたエピソードを史実と照らし合わせてみたい。
 大寒が教官に睨まれ、特殊訓練所送りになるエピソードがある。特殊訓練所で大寒たちは重い荷物を背負わされ、走らされ続ける。一日中走らされたのに夕飯はごくわずかな量で、栄養失調寸前という少年もいた。このときの体験について、手塚先生は次のように語っている。

「ぼくの中学校は大阪でも名門で、厳格さでも群を抜いていた。太平洋戦争も酣(たけなわ)のころ、ぼくは強制的に予科練を受けさせられた。ぼくは七つボタンにちっとも憧れたわけではないので、視力のために合格しなかったのはもっけの幸いであったが、途端に教官の一声で、強制修練所に入れられてしまった。こうなると年貢のおさめ時で、漫画なんぞ描いていようものなら、それこそ非国民、反動扱いで拷問にでもあいそうな空気であった」(手塚治虫『ぼくはマンガ家』毎日新聞社、1969年)

「ぼくのように体力のない弱い子たちは国民体育訓練所という一種のラーゲリ強制収容所)に入れられた。つまり、お国のために役立つ少年にするということで、一年間みっちり体力をつけるために、ぶちこまれたというわけです。ここは周りが二重に鉄条網に囲まれていて、入ったらもう出られません。
ところが体力をつけるどころか、豆かすみたいな食べ物ばかりで、毎日朝から晩まで軍事教練。とうとうぼくは耐えかねて、四カ月目に座ぶとん五枚で鉄条網をはさんで、くぐり抜け、家に逃げ帰ったのです。
(中略)
その夜は、もう無我夢中で三食分くらい食べさせてもらって、おふくろににぎりめしを作ってもらって、またこっそり訓練所に帰って、友達に食べさせたのです。」(手塚治虫『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』光文社、1989年)

 二重の鉄条網に囲まれた強制収容所のような施設に入れられるなんて、非常に恐ろしい体験だし、食べる物もまともに与えられずシゴかれるなんて、どれほど過酷な日々だったことだろうか。何かもう、地獄のようなイメージしか浮かんでこない。
 手塚先生のこうした発言について、小中学校時代の同級生だった泉谷迪さんは、著書『手塚治虫少年の実像』(人文書院、2003年)で冷静に検証している。
 手塚先生は「強制的に予科練を受けさせられた。(中略)視力のために合格しなかったのはもっけの幸いであったが、途端に教官の一声で、強制修練所に入れられてしまった」と述べているが、泉谷さんによれば、予科練受験に関しては「近視の者は不合格が分かっているので、最初から埒外におかれた。私もそうであったから、近視の手塚君が強制受験させられた事実はないはずだ。まして不合格の懲罰として「強制収容所」にいれられたというのは、全くあり得ない彼の創作である」ということだ。
 ただし、修練所に強制的に入れられて訓練させれたのは事実であり、泉谷さんは、「この施設は戦時下であるのに兵士になれない、身体虚弱者を鍛え直す目的で、兵庫県の仁川に設けられた「大阪府里山健民修練所」のことで、この施設に入所させて、夏休みの八月中合宿訓練をしたもので、北野中学から十二名が入所した」と説明している。
 また、「鉄条網云々などということがあろうはずもなく、食事も世間がすでに配給制で乏しかった時期に、そこそこのものは支給された。日課や訓練はきびしかったが、結構合宿気分で楽しくやっていたというのは、他の学友たちの回想である」とも述べている。
 修練所に強制的に入れられて訓練させられた、という手塚先生の発言は事実だが、泉谷さんの記述と比べると、具体的な細部に違いがあり、修練所の過酷さのニュアンスも異なっている。
 手塚先生の学友たちは「結構合宿気分で楽しくやっていた」と回想しておられたようだが、手塚先生は、こうした閉鎖的な管理下に置かれた生活、軍事教練のような運動系の活動が苦手だったのだろうし、この施設内で病気にかかったこともあって、つらい記憶ばかりが頭を占めていたのではないか。それに手塚先生は優れたエンターテイナーだったから、なかば無意識的に話を脚色したり誇張したりしたとも考えられる。一種のリッピサービスである。


『紙の砦』では、特殊訓練所に入れられたエピソードの次に、軍需工場へ勤労動員されたエピソードが描かれる。この勤労動員に関する手塚先生の発言を見てみよう。

「敗戦の年、ぼくは淀川の軍需工場にいた。軍需工場といっても、格納庫の屋根や壁などに使う、スレートをつくる町工場である。敗北につぐ敗北のニュースは、情報局がひたかくしにかくそうとしても、ぼくらの耳には隙間風のように吹きこんできて、もうやけっぱち気分になっていた。ぼくの寮の中や、トロッコの横で、スパイのように隠れながら漫画を描いた。」(手塚治虫『ぼくはマンガ家』毎日新聞社、1969年)

 手塚先生が勤労動員されたのは「大阪石綿」という淀川べりの工場だった。1944年(昭和19年)9月から勤務が始まった。当時手塚先生は北野中学の生徒だったが、学校に通うどころではなくなっていたのだ。そして1945年(昭和20年)3月28日、北野中学はまともに授業ができていない状態だったため、手塚先生の学年は1年早く卒業を迎えた。卒業後も勤労動員は続けられたようだ。
 手塚先生は工場で「スパイのように隠れながら漫画を描いた」と語っている。『紙の砦』でも、大寒鉄郎が隠れてマンガを描くシーンが見られる。
 そこで印象的なのが、大寒の描いたマンガを工員用トイレの個室の壁に貼りつけるエピソードだ。描いたマンガは読んでもらわなきゃ意味がない。教官らに見つからず皆が安心して読める場所で読んでもらおう、ということで選ばれたのトイレの個室だったのだ。
『ぼくはマンガ家』によれば、せっかく描いたマンガなのだからもっと堂々と発表しろと勧めてくれたのは、工場でいっしょだった蛮唐だったという。蛮唐とは、国粋主義の番長のようなもので、誰かが女学生と会話したり世界文学全集を読んだりしていようものなら、プラットフォームなどに呼び出してリンチを加えていた。手塚先生のようにマンガなど描いていたら当然殴られてもいいようなものだが、その蛮唐は手塚先生の描くマンガを気に入ってかわいがってくれていたらしい。


『紙の砦』の作中の大寒鉄郎はその後、勤労動員先の工場でマンガを描いていることがバレて要注意人物と見なされ、厳しい罰則を押しつけられることになる。その罰則の一つが、今にも折れそうなヤグラにのぼらされて敵機の見張りをさせられる、というものだった。
 1945年3月、大寒がヤグラの上にいるとき空襲を受ける。このときのことを手塚先生は次のように回想している。

「その日は、ちょうど昭和二十年の三月。ぼくはたまたま工場の監視塔に登っていました。毎日交替でそこへ登って、空を監視して空襲にそなえるのです。
(中略)
 ぼくが、その日、工場の監視塔でずっと見張りを続けていたら、二時ごろいきなり空襲警報が発令されたのです。
(中略)
 鳴ればいつも退避壕に避難するのですが、そんな暇はないので、ぼくはそのまま塔の上にいました。いきなり雲の間からB29の編隊がダーッとあらわれて、ぐんぐん近づいて来ます。その時の恐ろしさといったら、もう想像を絶するものがあります」(手塚治虫『ガラスの地球を救え 二十一世紀の君たちへ』光文社、1989年)

 このあと工場に焼夷弾が落とされ、監視塔にいる手塚先生の体のすぐ横をかすめるように落下して、自分は死んだと思ったという。まだ死んでいないと気づいたら一目散に監視塔を降り、火の海となった工場から脱出して、淀川の堤防へと逃げたのだった。
『紙の砦』では、マンガを描いていることがバレて、その罰としてヤグラに登らされたことになっているが、前掲の泉谷迪著『手塚治虫少年の実像』では「動員学徒は生産以外の任務は与えられていないから、監視塔の任務に就くということはなかったはずだ」と書かれている。おそらく手塚先生は敵機が来るかどうか見るため自分から監視塔に登ったのでは、というのが真相らしい。
 また、手塚先生はこの監視塔での空襲体験は1945年3月のことだったと述べているが、『手塚治虫少年の実像』では6月1日か7日のことと思われる、と記されている。
(補足:別の同級生の方の証言では、そもそも大阪石綿の敷地内にこのヤグラ自体が存在しなかった、という説もある)


 こうやって、『紙の砦』のどこまでが事実でどこまでがフィクションなのか、事実とフィクションをどのように絡めて物語化しているのか、といったことを見ていくのも、ファンにっては楽しい行為である。事実を知ることで知的好奇心が満たされるし、その事実がどのようにフィクション化されているのかを見ることで、稀代のストーリーテラーである手塚先生の魅力を再確認できるのだ。



●『すきっ腹のブルース』
 大寒鉄郎を主人公とした“紙の砦シリーズ”の第2部である。手塚先生はこのシリーズを第3部まで構想していたが、3部は描かれなかった。


 本作は、戦争が終わって間もない大阪を舞台にしている。現実の手塚先生が大阪帝国大学附属医学専門部の学生だった時代、『マァチャンの日記帳』でデビューする頃合いだろう。
 さきほど私は、『紙の砦』のなかで大寒鉄郎とヒロイン岡本京子の淡いロマンスが描かれた、といったことを書いたが、そこでの2人の関係は恋愛までは達しない友達関係だった。それに対し『すっき腹のブルース』で描かれた大寒とヒロインの関係は、恋愛の領域に入っている。なにしろキスシーンまであるのだから。このキスシーンが本作のクライマックス。最も鮮烈なシーンだ。
 ヒロインの名は“河原和子”。新聞社に勤め、しっかりした考えを持ち、学生の大寒より年上で、社会的経験の豊富な大人の女性だ。大寒の描いたマンガ原稿を偶然見かけた和子は、それを勤務先の編集長に見せたいと言った。つまり大寒と和子は漫画家と編集者の関係なのだが、一目会ったその瞬間から大寒は和子にメロメロ、という感じだ。ハートマークが大暴れである(笑)
 なのに大寒は、「ああいった気性の強い女はきらいだ」と言って自分の気持ちに素直ではなかった。好きになったところで自分は学生。相手は大人だからお付き合いするのは無理だろうという思いが、大寒を素直にさせなかったのだろう。しかし大寒の頭には和子の顔がちらついて、マンガの執筆に集中できない。たまりかねて、ついに和子に「会いたいんだ」と伝えるのだった。
 街へ出かけた2人は、騒がしいデモを尻目に立っていた。すると不意に、和子が大寒に口づけしてきた。軽い瞬間的なキスではない。口づけした状態が5コマに渡って描かれるほどの長さなのだ。それまで大寒にその気を見せていなかった和子の突然の大胆行動に、大寒はもちろん、この作品を初めて読んだ少年時代の私もびっくりだった。さすが大人の女性だ、と感心・感嘆である(笑) 大寒ははっきりと告白したわけではないけれど、大人の和子は大寒の挙動から自分が好意を寄せられていることに気づいていたのだろうし、大寒からかかってきた「会いたいんだ」の電話が、ほぼ告白に等しいものと受け取ったのだろう。これが大寒にとってファーストキスとなった。


『すきっ腹のブルース』では、そんなロマンスが描かれている。このロマンス要素に心惹かれながら本作を読むのも一興だが、本作の最初から最後までを貫くテーマは、タイトルにある“すきっ腹”である。敗戦後、焼け野原になった貧しい日本では、多くの人々が空腹に苦しんでいた。栄養失調で亡くなる人が増え、行き倒れの死体が転がっていてもほったらかし、自分が食っていくだけで精一杯、という状況だった。大寒もまた、すきっ腹でつらい思いをしている一人だった。
 本作は、空腹をしのぐためイモ泥棒をする大寒たちの場面から始まって、配給される食べ物の乏しさを解説するナレーション、アメリカ兵がばらまくチョコに群がる人々、黒人兵に美女の絵を描いてあげる代わりに菓子をもらう大寒、飢えて野垂れ死んだ遺体、「ぼくァいま食うことしかたのしみがないんだ」と和子に言う大寒、「腹いっぱい食わせろーっ!」と訴えるデモ……といったふうに“すきっ腹”を物語る場面を随所に織り込んでいる。
 そうして訪れるラストシーン。ここで大寒が選んだ行動を見ると、“すきっ腹のブルース”というタイトルが痛みや切なさをともなって心に響いてくる。何かそういう音楽が聴こえてきそうな気分になって、私はしばらくぼんやりとした。



『すきっ腹のブルース』関して、もう一つ触れておきたいことがある。
 この作品には、大寒が占領軍のアメリカ兵に殴られる場面がある。そこで描かれた殴られ方と経緯は異なるものの、現実の手塚先生も、この当時アメリカ兵に殴られたことがあった。そして、このアメリカ兵に殴られた経験がアトムのテーマにつながっていった、と語っている。

宝塚もご多分にもれず米軍高級将校の宿舎になった。ある日、四、五人の酔っ払い兵がぼくとすれちがった。
「××××××」
と、兵隊がぼくに何か訊ねた。残念ながら、「適性語」ということで英語の勉強を中断されたっきりのぼくにとっては、まったくチンプンカンプンである。
「ホワット?ホワット?」
と訊き返すのがせい一ぱいだ。するとたちまち、ボカーッとなぐられて、ぼくは地面に叩きつけられた。痛さに耐えかねて起き上がれない。
(中略)占領軍に反抗すれば、射殺されても文句が言えない時代なのである。腹立たしいやら口惜しいやら、意志の疎通の欠如を、ぼくはひどく呪った。
当分のいあだ、この厭な思い出はぼくから頑強に離れず、しぜん、ぼくの漫画のテーマに、そのパロディーがやたらと現れた。地球人と宇宙人の軋轢、異民族間のトラブル、人間と動物との誤解、そして、ロボットと人間との悲劇……アトムのテーマがこれなのである。
(『ぼくはマンガ家』毎日新聞社、1969年)

 異文化間の遭遇と軋轢、異種族間の接触ディスコミュニケーションは、私が手塚マンガから感じる面白さのコアな部分であるが、そのテーマの根っこに、占領下の日本でアメリカ兵に殴られた手塚先生のトラウマ的な体験があった。その体験の衝撃があまりにも深かったがゆえに、このテーマは手塚マンガの血肉と化し、長年のあいだ鮮烈で鋭敏なものであり続けたのだろう。
 手塚マンガは、自分が常識だと思っているその常識は、自分が属しているコミュニティ内でのみで通用するものなのだ、と気づかせてくれる。自分が外の世界と接触すれば、自分の常識はたちまち常識の名に値しないものとなり、自分の信じてきたものがたちまち相対化される。
 日本人の常識は外国人に通じにくく、地球人の常識は異星人に理解されず、強者の常識は弱者を踏みつけにし、人間の常識は他の動植物たちに害を及ぼす……。
 そのことを心に刻み込めば、自分が絶対だと思ってきた常識や価値観を別の角度から見られるようになる。自分にとって絶対的だと感じられていた真実を疑うことができる。
 そして、自分の常識や価値観が通じる相手がいてくれることが奇跡のように思え、深く感謝したくなってくる。
 自分と他者が(どこか一部でも)わかりあえる。それは、奇跡的なまでにありがたく稀有な、驚くべきことなのだ。