『鉄の旋律』

 
『鉄の旋律』は、少年画報社の「増刊ヤングコミック」で1974年6月25日号から1975年1月7日号まで連載された。
 シリアスで重い青年マンガのひとつ。復讐譚であり、一種の超能力モノともいえそうだ。


 私は本作を初めて読んだときから、相当長いあいだまったく読み返さずにいた。そうやって長年を経ても脳裏に強い映像的インパクトで刻まれていたシーンが、主人公の壇が線路のすぐ横に寝かされて縛りつけられ、彼の腕だけがレールの上に置かれたシーンである。それと、金属製の腕が地面をズルリズルリと這っていくラストの一コマもそうだ。とにかく私にとって、この作品のイメージは鮮烈なまでに“腕”なのだ。


 壇の運命の歯車は、妹の亜里沙がイタリア系アメリカ人のエディと国際結婚したことで大きく狂い始める。そもそも国際結婚というのは日本人どうしの結婚より困難がつきまとうものだろうが、エディはアルバーニ家というマフィア一族の御曹司で、彼の父親がその一族のボスだったため、通常の国際結婚の困難さとはまた意味の違う苦難が待ち受けていたのだ。
 妹がアルバーニ家の御曹司と結婚したことで、兄の壇も一族の掟を守る義務を課せられた。その掟は、「一族の中であらそいを起こさぬこと」「一族を裏切らぬこと」「一族の行動にさからわず指令に従うこと」だった。


 壇はその掟を守ることを誓ったが、その後知らず知らずのうちに掟を破ってしまう。マフィアは掟を破った者に対して容赦がない。もちろん「知らなかった」ではすまされない。好青年に見えたエディも、窮地に陥った壇の弁護をしてくれるどころか、その場で壇を殴りつける始末だ。
 壇は、線路の横に寝かされレールの上に腕を置かれて、走ってきたトロッコに腕を轢かれる。とたんに腕は切断。まず右腕から、そして左腕も…。


 このたび本作を読み返してみて、私が過去に読んで強いインパクトで記憶していたシーンは、この腕が実際に切断されるシーンそのものではなく、作品の冒頭あたり、今まさにトロッコが壇の右腕を轢こうとしている見開きページであることが確認できた。のちの場面で壇の腕が切断されることを、冒頭であらかじめ示した箇所である。本作を読みだしたばかりの読者にガツンと衝撃を与える効果がある。ただし、この冒頭の時点では、腕が本当に切断されるかどうかまでは描かれていない。だからもしかすると何事かハプニングがあって、すんでのところで腕が切断されずにすむのではないか、という希望的予測も抱くことができる。腕が切断されてしまうかのような場面をあらかじめ示しておいて、じつはギリギリのところで助かるのでは…と考えることもできたのだ。
 だが、そのような希望的予測を抱きながら作品を読んでいくと、その希望は早い段階で無情にも砕かれ、壇の腕は両方とも間違いなく切断されてしまうのだった。冒頭の見開きページは、まったくウソをついていなかった。


 両腕を失った壇は、意識を取り戻すと精巧な義手を無性に欲しがった。アルバーニ一家に復讐するためだ。その後の壇は、復讐を目的に生きることになる。まさに復讐の鬼である。
 壇は、マッキントッシュ先生という超能力研究者に出会い、拷問のような苦しい訓練のすえ、PK(念力)によって何の機械仕掛けもない義手を操れるようになっていく。マッキントッシュ先生によれば、「PKとは念力などという通俗語で呼ばれているが、事実はオーラのエネルギーの増幅によって物質が動」くことである。オーラは人間でも他の動植物でも体から出ており、出す者によって色や形が違い、一種の電磁波だと言う学者もいるという。こうした点から、先述のとおり、『鉄の旋律』は超能力モノの要素も備えているのだ。


 壇はいよいよ復讐の乗り出そうとするが、思いがけない事態が起こる。壇の義手が壇の身体から離脱して勝手に動き回ってしまうのだ。壇が眠っていても失神していても、壇の潜在意識にある憎しみや恨みによって鉄の義手だけが動きだし、殺人を実行するのである。
 もうこうなると、本作の物語を展開させるのは壇本人というより義手のほうになってくる。義手は両腕を奪われた憎悪で動いているため、殺人を行うさい、殺す相手の両腕をもぎ取るという手口を繰り返す。
 殺された犬や人間の両腕がなかったり、パーティー会場に両腕の入ったケースが送られてくるなど、この作品における“腕”のインパクトは、そんな猟奇的な描写とともに印象づけられていく。


 ところが、勝手に動く義手の殺人行為も、壇の復讐の最終目的であるエディにまではまだ到達しなかった。怪物化した自分の義手の殺戮を見てきた壇は、もう殺人は重ねたくない、と思うようにすらなった。
 そして、マフィアのほうも、ただ黙ってやられているばかりではなかった。
 終盤、アルバーニ一家の策略で壇も妹の亜里沙も撃たれてしまう。重体だがすぐに手当すれば命は助かるという危険な状態のなか、もう殺人を重ねたくないと思い始めていた壇は、再びエディへの憎しみと復讐心を駆り立てられる。
 壇は、「おれはエディが憎い 刑事さんっあんたも憎い なによりもこんなことで挫折するおれが心そこ憎い!」と叫ぶ。すると、その言葉に反応するように義手がズルリズルリと這って、壇やエディや刑事がいる場所へ向かっていくのだった。
 それがラストの一コマであり、私の記憶にずっと刻まれていたインパクトのある場面のもう一つであった。


『鉄の旋律』は、腕が放つ強烈な映像的イメージ、それも身体から離れた腕のイメージに満ちている。線路で切断された腕、殺人でもぎ取られた腕、送りつけられた腕、地面を這う腕、人を襲う腕…。通常なら身体の一部位である腕が、身体から離れて自律的なイメージを獲得している。そして、その自律は、無残に身体から切断されたり、憎悪によって身体から勝手に離れることでもたらされている。そのため、自律した腕のイメージは、同時に無気味さやおぞましさや悲惨さといった負のイメージをともなっている。


 さて、義手がズルリズルリと這っていく…というのが本作ラストの一コマであった。その後義手が何をしたのか、作品上では描かれないが、わざわざ深読みなどしなくとも、重体の壇が「憎い」と叫んだ相手に順番に襲いかかって彼らを殺そうとしたのだろう、と推測できる。
 壇が憎いと叫んだ相手は、エディ、刑事、そして壇自身であった。この物語において描かれなかった本当のラストは、壇が壇によって殺される場面なのだろうか…。
 本作の中盤あたりで、マッキントッシュ先生はこんなことを言う。「おまえのPKが憎悪のオーラからきてるちゅうことじゃ もしおまえが何かの拍子に自分を憎み始めたら その義手はおまえ自身を殺すことになるぞ」。
 このセリフが伏線となって、描かれなかったラストにつながりそうなのだ。


 壇が壇によって殺される…、正確には、壇が壇の憎しみの感情で動く義手によって殺される。その結末が本当に到来するとすれば、その直前に、義手はエディや刑事も殺していることになる。
 壇が最も復讐したかった相手であるエディを殺すことができたというのなら、この復讐譚はとりあえず成功の結末を迎えるわけだが、その後殺されるであろう刑事はとんだとばっちりであるし、復讐する側である主人公が自分自身の感情で殺されてしまうのだから、「復讐が成功した」と手放しでは言いがたい。あまりにも大きな代償を払って、かろうじて復讐すべき相手に復讐できたのだけれど、復讐の成功がもたらすカタルシスはないに等しく、もやもやした暗澹たる感じが残るばかりである。この後味のよくない感じが、昭和40年代の手塚青年マンガのひとつの特徴であった、とも言える。


 講談社手塚治虫漫画全集『鉄の旋律』(1980年)のあとがきで、手塚先生はこんなことを書いている。
「なぜか、ぼくの青年マンガには夢のひろがりがなく、たのしさにかける、といった読者がいます。はっきりいえば、ぼくの青年マンガでは、そういうものをつとめて消そうとしているのです。ぼくにとって青年マンガは、アトムやレオのような少年マンガの夢のアンチテーゼの産物のつもりなんです。だから、とっつきが悪いし、地味な作品が多いのかもしれません」
鉄腕アトム』や『ジャングル大帝』といった少年マンガでも、手塚先生はハードなテーマや悲劇的な物語などを描いているが、それでも少年マンガには希望や夢のような前向きなイメージがわかりやすく注入されているし、何より、シリアスなストーリー物であってもユーモアや楽しさが頻繁に感じられる。それが青年マンガとなると、ユーモアや楽しさといった要素が影をひそめてしまうのだ。
 それが悪い、というのではなく(むしろ私は手塚先生の青年マンガや暗いマンガが大好き!)、手塚先生お一人の作品を一作一作読んでいくだけで、陽も陰も、希望も絶望も、シリアスもユーモアも味わうことができて、その作風のとてつもない幅の広さに感服するばかりなのである。手塚マンガを読むということの精神的ぜいたくさを思わずにはいられない。