『時計仕掛けのりんご』


週刊ポスト」1970年4月17日号〜5月8日号で連載された。マンガ雑誌ではなく一般週刊誌での連載である。
 
 
 私はこの作品を1976年発行の秋田漫画文庫で初めて読んだ。10代のころだった。当時の秋田漫画文庫の表題作になっているという意味で、私のなかでは『鉄の旋律』と連なって記憶されている。


 初めて読んだとき、ひとつの町(稲武市という架空の小都市)をまるごと隔離してしまう…という発想にまず驚いた。このインパクトは強かった。
 なぜ町が隔離されるのか。誰がやっているのか。それは物語の途中まで、まるで見えない。
 町の中で暮らすほとんどの人々は、隔離されている事実どころか、何か異変が起きていることにすら気づかない。


 そんななか、日常のちょっとした違和感に反応し、何かがおかしいと感じ始めたのが、主人公の白川雄作であった。町の時計工場に勤務する、33歳の経理マンだ。
 何かが変だ、何が起こっているのか…と白川が抱く違和感と疑惑は、読者も共有できる。町がどうなっているのかという情報は、読者にも与えられていないのだ。白川とともに、町で起こっている異変の真相を解き明かしたい。その気持ちに押されて、作品を読み進めることになる。
 何か変だという感覚は、朝届く新聞が朝日新聞だけになったとか、ラッシュアワーなのに道路に車が走っていない、といった事象から生じる。いつもの日常がいつもとすこし違う…。
 車を走らせて町から外へ出ようとすると通行止めの標識があった。無視して走りすぎると、白バイ警官に止められて免許を取り上げられた。そのとき、ちらりと戦車が見えた。
 そして、町に流通する米には、どうやらピューロマイシンなる劇薬がまざっているようだ。日常のちょっとした違和感は、しだいに強い疑惑の念や不穏な感覚へと移行する。これは、ただならぬことが起きている。
 そうやって徐々に見えてくるひとつひとつのピースによって、真実に少しずつ近づいていく。しかしまだ真実の全貌はわからない。そのサスペンス感にゾクゾクさせられる。


 町に暮らす人は4万人もいるのに、異変に対して騒ぎ立てる人物が白川夫妻などわずかしかいないのは、劇薬ピューロマイシンのせいであった。市民が食べる米にこの劇薬がひそかに混入されており、それを食べ続けていると頭がボケて物事に無関心になってしまうのだ。白川雄作の妻がパン食主義者で、夫にも常時パンを食べさせていたため、この夫婦はピューロマイシン入りの米を口にせずに済み、そのため頭が正常のままだった。だから、町の異変に気づいたのだ。
 頭が正常のままで、異変に疑問を抱き、起きていることの真相を探ろうと動く白川のことを、町を隔離している首謀者が疎ましく思わないわけがない。黙って放置しておくはずもない。
 白川の前に、ついに首謀者が姿を現すときが来た…。
 そうして、首謀者が誰なのか、なぜこんなことをしたのか、といったことが明らかになっていくわけだが、ここでは明かさないでおこう。
 首謀者たちが、ひとつの町を完璧に隔離するために行っていたさまざまな手法がまことに周到で大がかりで、そこに驚嘆させられる。


 隔離された町は、稲武(いなたけ)市という人口4万人の地方都市だ。南アルプスの隣、天竜川の中流近くに位置し、付近に飯田市がある。ということは、長野県内の市なのだろう。
『時計仕掛けのりんご』というタイトルは、アントニイ・バージェスの小説『時計じかけのオレンジ』のモジリである。『時計じかけのオレンジ』といえば、スタンリー・キューブリック監督の映画版がとても有名だが、手塚先生が『時計仕掛けのりんご』を描いたのは、映画公開よりも前のことだ。小説の『時計じかけのオレンジ』が1962年の発表、映画版は1971年(日本では72年)の公開で、手塚先生の『時計仕掛けのりんご』は1970年の発表である。
 手塚先生は、小説版がアメリカで出版された直後の紹介記事でこのタイトルを知ったという。だが内容を読んでおらず、どんなテーマか知らない状態で『時計仕掛けのりんご』を描いた。もちろん映画版の公開前だから、映画の内容をヒントにしたわけでもない。タイトルの類似性のわりに、内容的には無関係なのである。


 手塚先生は本作で“オレンジ”を“りんご”に変えて、タイトルのパロディをやったわけだが、タイトルに“りんご”を入れたため、作品の舞台をりんご農園の多い飯田市付近に設定したのだろうか。稲武市もりんご農園が多い町、という設定だ。まことに個人的な話だが、私は冬場によく飯田市へりんご狩りに行く。だから『時計仕掛けのりんご』の“りんご”が飯田市のイメージと関連していることに、ささやかな親しみを感じる。


 ほかに、『時計仕掛けのりんご』の特徴としては、全ページのコマ枠の外側(本来なら余白となるスペース)が真っ黒に塗りつぶされていることがあげられる。これは一目瞭然の特徴だ。手塚治虫漫画全集『時計仕掛けのりんご』の小口や天地を見ると、この一冊には8作品が収録されているが、『時計仕掛けのりんご』のページの範囲だけくっきりと黒くなっている。