『イエロー・ダスト』『悪魔の開幕』


 少年画報社の青年マンガ雑誌ヤングコミック」(増刊含む)で手塚先生が描いた作品は、調べてみると思いのほか多くない。私は漠然と、もっと多いという印象を勝手に抱いていた。


・『イエロー・ダスト』「ヤングコミック」1972年7月12日号
・『悪魔の開幕』「増刊ヤングコミック」1973年11月27日号
・『鉄の旋律』「増刊ヤングコミック」1974年6月25日号〜1975年1月7日号

 読切2作品と、連載1作品。これだけだ。
 このうち、『鉄の旋律』については当ブログですでに取り上げている。
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20151007


 今回は、読切の2作品について語ろうと思う。思い切りネタバレしているので未読の方はご注意を。


 
『イエロー・ダスト』『悪魔の開幕』ともに、講談社手塚治虫漫画全集『時計仕掛けのりんご』に収録されている(秋田文庫『鉄の旋律』であれば、「ヤングコミック」掲載3作をすべて読める)。どちらも社会派的なテーマを扱っており、救いのない重苦しさを感じる。


『イエロー・ダスト』
『イエロー・ダスト』は、戦争のおぞましい狂気、そんな戦争を生んでしまう人間の愚かさを、1972年の沖縄を舞台に描いている。直接戦争場面を描写しているわけではないけれど、戦争とは愚かでひどいものである、という手塚先生の戦争嫌悪の念が、エグい表現とともに浮かび上がる。
 1972年8月23日、沖縄である事件が起きる。キャンプ・シールズの米軍子弟が通う小学校のバスが襲撃されて、児童23人と引率の教師1人と運転手が連れ去られ、人質となったのだ。人質が連れていかれた場所は、旧沖縄作戦本部海軍壕だった。戦中に日本軍がひとり残らず自殺した場所だという。犯人は日本人の米軍労務者3人であった。
 犯人たちは銃を持っており、米軍基地のトラックから水と食料1週間分を盗んで壕に運び入れていた。長期間この場所に立てこもる用意はできているのだ。周到な計画的犯行である。


 あどけない子どもたちが大勢人質にされているのだから、常識的な読者としては、子どもたちにぜひ助かってほしいと願わずにはいられない。そして、そういう結末を期待したくなる。
 だが、そんな願いも期待も空しく、物語は容赦なく登場人物たちを殺していく。
 まず、運転手が銃で殺害される。登場人物の死の始まりだ。とはいえ、このあと一旦は、子どもたちが救われるかもしれないと期待を抱かせるくだりがあるにはある。犯人は、白人の女性教師に取引をもちかける。1回抱かせてくれれば子どもを1人解放するから、23回で23人全員が助かることになると。その取引自体がすでに鬼畜の所業ではあるが、子どもの命には替えられない。教師はその取引に応じて自分の体を差し出すしかなかった。
 犯人は約束を守って1人め、2人めと子どもを壕から解放する。ところが、その瞬間目を疑う光景が飛び込んでくる。壕から解放されて走り去ろうとする子どもを、犯人は背後から銃で撃ち殺したのである。銃でめちゃくちゃになる子どもの体…。約束も何もあったものではない。非道だ。あまりに非道だ…。


 ここまでは、作中において非道で暴力的な存在は犯人に限られていたけれど、この後から様相が変化する。人質になっていた子どもが隙をついて犯人から銃を奪い、犯人を撃ち殺すのだ。いや、その行為だけならこれは希望的な展開だと言える。いよいよ子どもたちが犯人への逆襲を開始し、脱出劇・救出劇へ至るのだろう、と期待できるからである。この事件はこれで解決に向かっていくのだ、と明るい先行きが感じられるのだ。
 ところが、この物語の容赦のなさは徹底していた。
 決死の思いで救出に入った米軍兵が壕のなかで目撃した光景は、血まみれで倒れている大勢の子どもたちの遺体だった。犯人たちも子どもに殺されているので、生き残ったのは、ボロボロになった女性教師だけ。本作は凄惨なシーンがいくつかあるが、なかでもこのシーンは最も凄惨で救いがなく、強烈な印象を残す。視覚的に凄惨であることこのうえないし、結局23人の子どもは誰一人助からなかったんだ…とあらゆる希望が打ち砕かれるのだ。


 なぜこんな凄惨なことになってしまったのか、その秘密がラストで明かされる。
 犯人が盗み出して壕に運んでいた米軍の食糧に「十二号食」というものが含まれていた。十二号食には、ベトナム戦争厭戦気分に陥った兵士を戦場に駆り出すため、人間の脳を一時的に狂わせ闘争心を剥き出しにする一種の麻薬が混入してあるのだ。それは、米軍の機密事項であった。
 犯人たちは事件を起こす何ヵ月か前、ベトナムへ送られ、その薬を飲まされて戦場へ駆り出され、多くの人を殺していた。そして、壕で人質になった子どもたちは、犯人が盗んできた十二号食を食べたがために闘争心が剥き出しになり、互いに銃で殺し合ってしまったのである。全員が死ぬまでその銃撃戦は終わらなかった。教員を除いて皆殺しという結末を招いた元凶は、十二号食にあったのだ。


 そのように、人間の脳を狂わす薬が製造され使用されていたわけだが、そもそも、そんなろくでもない薬を作ってしまった人間の脳こそが、薬を飲んでいなのにすでに狂っているのではないか。そう思わずにはいられない。平和時には善良な市民であろう人間たちを、そんなふうに狂わせてしまう戦争というものが孕む本質的な狂気に慄然とする。


 ストーリーを全体的に追ってみたところで、もう少し細かい点に触れてみたい。
●沖縄瑞慶覧キャンプの司令官・ボーマン大将は、手塚スターシステムの一人レッド公が演じている。私はレッド公といえば初期SF3部作のうちの2作品『メトロポリス』と『来るべき世界』が特に印象深い。『イエロー・ダスト』は劇画的なタッチなので、デフォルメの効いた大きな鷲鼻のレッド公の顔がリアルな方向へずいぶん寄せられている。物語の前半で、事件の犯人がベトナムに2回軍労務者として行っている事実を聞かされたボーマン大将。そのとき彼は、ショックを受けて目を丸く見開く。その表情は、犯人たちの素性に何事かとんでもない秘密が隠されていて、そのことをボーマン大将が知っている、ということを無言で物語っている。


●犯人が人質に向かって「ここはな むかし日本軍がひとり残らず自殺したてえ地下壕だ」と語る場面は、のちに犯人と人質の子どもたちが皆殺し状態になる結末を暗示している。この場所は、滞在した者を生かしておかない、不吉な穴の中なのである…。戦時中と事件が起きた現在とが、その不吉なイメージでつながっている。ただ異なるのは、日本軍の兵がひとり残らず死んでしまったのに対し、こちらの人質事件ではひとりだけ生き残ったことだ。


●ひとりだけ生き残ったのは、前述のとおり、引率の女性教師だった。彼女だけが生き残る、その伏線が物語の前半で張られている。犯人が、米軍から盗んできた食糧を人質の子どもたちに「食いな」と配る場面だ。このとき、女性教師も犯人から「先生も食えよ」と食糧をすすめられるのだが、教師はそれを拒んで、子どもたちを許してやってほしいと犯人に願い出る。食糧の容器には「NO.12」と記されていた。そう。これが、のちに「十二号食」と判明する問題の食糧だったのだ。教師は自分はどうでもいいから子どもたちだけでも、という気持ちで食糧を口にしなかった。そのおかげで、結果として十二号食によって脳を狂わされることなく、子どもたちの殺し合いに加わらずに済んだ。もちろん狂暴化した子どもに撃ち殺される可能性はあったわけだが、それも免れ、ひとり生き残ったのである。



『悪魔の開幕』
『悪魔の開幕』は、大きく言えば政治テーマの作品だ。そして、この作品もまた、戦争を読者に意識させるところがある。『イエロー・ダスト』と同様、直接的に戦争を描いているのではないが、国家がこれから戦争へ向かっていくことを予感させる、不穏な状況が表現されているのだ。
 その、戦争に向かっていきそうな状況下にある国家とは、ほかならぬ日本である。3年前に誕生した丹波内閣は、日本に戒厳令を敷き、国民の自由を制限していた。夜間は外出禁止、映画もテレビも新聞も検閲され、電話は盗聴、手紙は開封された。丹波首相は自衛隊を軍隊と言い切り、国民の反対を押し切って憲法を改正する。しかも、中国やそのほかの国の圧力から東南アジアを守るという名目で、ついに核兵器の製造に踏み切ったのだった。
 政府に権力を集中させ、国民の自由を抑圧しながら軍事力を増強していく。その行き着く先に戦争が見えてくるではないか。いや、自衛隊を正式な軍隊と認めたり核兵器を製造したりすることは、戦争を引き起こすというより絶大な戦争抑止の力になる、と考える向きもあるだろう。しかし、たとえそれで戦争が起こらないにしても、このような強権国家、不自由な国になってしまっていることが、一人一人の国民にとって悪夢のような事態なのだ。政治的なトップが強大な権力を握り、その権力によって国が統制され、国民の自由が強く制限される…。そうなってはいけない国のありさまが、ここに描かれている。


 本作の主要な登場人物は、場末のアジトを拠点に反体制運動を行う岡重明と、反体制の運動家たちに尊敬される“先生”の2人である。先生は思想家だ。その著作は国から発禁処分を食らい、地下に潜らざるをえなくなっていた。
 あるとき、先生がわざわざ岡に会いに来てくれた。喜ぶ岡。先生は岡に丹波首相の暗殺を依頼する。流血は本意ではないが、このひどい政府を転覆させるにはもうこの方法しかないのだと。
 岡は、電気科出身の知識を活かし、自分流の方法で丹波首相暗殺計画を進めていく。
 これでちゃんと暗殺が成功すれば(もちろん人が死ぬこと自体はめでたくないが)、作中の日本国民にとって朗報だろうし、物語としてカタルシスがあって、とりあえずはめでたしめでたしと思える結末になるのだが、本作ではそんなふうには、事がうまく運ばない。


 先生はじつは政府と内通しており、丹波首相は暗殺計画をあらかじめ知っていた。それどころか、暗殺計画は丹波首相の差し金だったのだ。だから当然、岡の暗殺計画は失敗に終わる。
 丹波内閣は、首相暗殺未遂事件が起こったのを口実に、首相に反対する野党勢力などを一斉に検挙し始めた。これを機に濡れ衣を着せまくって、反対勢力を一掃しようという魂胆である。
 そして、その陰謀を知ってしまった岡は、口封じのため殺されてしまう。もはや、なんの救いもない状態だ。
 丹波首相をやっつけてくれるはずの主人公・岡が、尊敬すべき味方であるはずの先生に裏切られ、作戦に失敗し、しまいには殺害されてしまう…。踏んだり蹴ったり、どころか、とことん絶望的な展開である。


 ただし、その完膚なきまでに救いのない物語に、多少なりとも救いの要素を入れ込むことで本作は閉幕する。真相を知った岡は、近いうちに自分が先生に殺されることを予期し、自分が死んでも先生に復讐できる仕掛けを作っておいたのだ。その仕掛けによって、先生も死んでしまう。裏切り者の死によって話が幕を閉じるのだから、それがせめてもの救いといえば救いある。
 でも、先生が死んだところで、この作品のなかでの巨悪である丹波首相の政権にはほぼ何の痛手もない。丹波政権は揺るぎないまま続いていくのである。話は先生の死で終わっていて、丹波政権がどうなるか何も描かれていないが、その後の丹波政権のさらなる増長と暴走が予感されて、暗澹たる気分になる。


 私は、そんなふうに感情を動かされたことも含めて、この短編はよくできていると思う。国家規模の大きな悪があって、小さな力ながら立ち向かう主人公がいて、作戦の具体的な遂行と失敗があって、事の真相が明らかになって、味方だと思っていた人間の裏切りがあって、復讐もある。エンタメとしてまことに読ませる構成なのだ。


 さて、『悪魔の開幕』についても、全体的にストーリーを確認したところで、もう少し細かな点を見ていきたい。
●この作品は、丹波内閣によって変えられてしまった日本の状況や、味方だと思っていた先生が裏切り者であったこと、主要人物2人が2人とも死んでしまうラストなどにインパクトがあって、それらの点が心に強く刻まれる。だが、物語の中心部は、主人公・岡が電気科出身の知識と技術を活かし、首相暗殺計画を着々を進めていくシークエンスである。暗殺予定の現場である都立劇場を前もって綿密に調べ上げるシーン、都立劇場で怪しまれず作業をするため劇場専属の電気屋に勤務するシーン、暗殺の仕掛けをほどこすべくシャンデリアを工事するシーンがきっちり描かれることで、この物語は厚みと説得力を獲得している。岡の暗殺計画が、いかに地道で緻密で周到であるかがよくわかり、しかもその地味になりがちなシーンをスリリングに読めるところがすばらしい。そうやって綿密に描かれた暗殺計画が失敗に終わるわけだから、よけいにショックが大きい。


●巨悪である丹波首相をやっつける主人公・岡は、この物語のなかではいわば正義のヒーローである。そのヒーローの容姿が、派手とかカッコいいとかではなく、真面目そうな地味な姿で描かれているのも特徴的だ。彼が実行する暗殺計画のコツコツとした内容が、彼の風貌と合っていて、読者にリアリティを感じさせるし、こんな地味な主人公が大それた計画を行っているんだ、という一種の意外性を感じることができる。


●その正義のヒーローが、信頼する先生の裏切りで敗北するのが、この物語の結果であるが、その裏切り者への復讐には成功するので、読者のフラストレーションはとりあえず蓄積せずにすむ。ただ、倒すことができた相手は、巨悪である丹波首相ではなく、丹波首相に取り入っていた思想家の先生であり、先生は巨悪と比べれば小悪党程度だと考えると、その点は心残りだ。


●ラストの2コマでは、銃撃で蜂の巣になって死亡した先生の姿と岡の姿が、1コマずつ順に描かれている。そのように主要人物2人の死体描写で締めくくられるため、この物語の結果は2人の喧嘩両成敗なのだ、とのイメージを与えられる。だが、最終の2コマ分がそんな無残な死体であるだけに、独特の後味の悪さが残り、結局のところは丹波首相の一人勝ちに終わってしまったのだ、という虚無的な気分にもみまわれる。