『アラバスター』

週刊少年チャンピオン」1970年12月21日号〜71年6月28日号連載
 
『アラバスタ―』は手塚先生の調子がかんばしくない時期に描かれた作品であり、出版社から単行本にしたいと依頼があってもどうしても気が乗らない作品のひとつだったという。手塚先生は同様の作品として『ダスト18』『ブルンガ1世』『ハリケーンZ』を挙げている。
 気が乗らない理由は作品によってまちまちだったが、『アラバスター』の場合は、作品の暗さ、陰惨さが嫌だったとのこと。


 たしかに『アラバスター』は暗い作品だが、駄作とか失敗作といった感じではない。私は個人的に、手塚先生の暗い作品が好きで、10代のころ手塚マンガにどっぷりとハマっていったのは、こうした暗い作品の影響が絶大である。
 暗い系の手塚マンガは当時の私の不安定な精神にシンクロし、グッと迫ってくるものがあった。トラウマ的な精神的衝撃をもたらすものでもあった。私が長年のあいだ手塚マンガから離れられない背景には、このときの精神的な体験が強く根ざしている。自分のなかにある暗い部分が暗い手塚マンガのおかげで安定感を得、余暇の娯楽として気軽にマンガを読む以上の特別な何かをもらえたような気がするのだ。
 そういう影響を及ぼしてくれた作品は手塚マンガのなかでも青年マンガに多いのだが、少年マンガである『アラバスター』も紛れもなくそのうちの一作である。


アラバスター”と名乗る主人公の男は、もともとは、ミュンヘンオリンピックで金メダルを6つも取るほど有名なスポーツ選手で、一目惚れした美人テレビスターと交際していた。ところが、いざ彼女に結婚を申し込むと、「あなた お顔をごらんになったことあって?」と嘲笑される。黒人の彼は、その肌の色のため結婚を断られたのだ。
 男は怒り狂い、大暴れして逮捕され、懲役5年の刑に服することになった。その刑務所で一人の自然科学者と知り合い、体を透明化する装置を発明したと聞かされる。自分の肌を消してしまいたいと思っていた彼は、出所してから科学者の研究室を訪れ、その装置を試してみた。すると、男の身体は完全には消えず、肌だけが透明化したため、血管や内臓など通常は見えない部分が露出した姿になってしまった。あとで分かったことだが、この装置が出す光線を完全な透明体になるまで浴び続けると、人は死に至るのだが、男は痛みのあまり途中で光線から逃れたため、中途半端に肌だけが透明になり、命を失わずに済んだのだ。
 はたして、このとき彼が命を失わなかったことは、本人にとって、あるいは世界の人々にとって良いことだったのか……?


アラバスター』の序盤を読んだ私は、人間の体を透明化する装置を発明し、自分の娘を人体実験で殺してしまった科学者、すなわちマッドサイエンティストの登場にゾクゾクさせられた。マッドサイエンティストの登場する物語は面白い、という私の個人的なイメージが、そのゾクゾク感を生んだのだ。
 そして、アラバスターと名乗る男のグロテスクな姿に、単純にギョッとさせられた。男がその姿になってしまった理由を知れば、彼が人間とか社会に復讐心を抱くわけは理解できた。
 復讐心を抱く心理は理解できるにしても、彼がやろうとしている復讐行為はあまりにも狂暴でおぞましく、常人の理解の域を逸脱している。私は、復讐・かたき討ち・仕返しモノが好きなクチで、そういう物語を読むときは復讐する側に感情移入する場合が多く、復讐が成し遂げられたときに味わえるカタルシスはたまらないと思う。だが『アラバスター』に関しては、復讐する側のアラバスター一味に容易に感情移入することはできなかった。復讐がもたらすカタルシスも、素直には味わえなかった。それでいて、私はこの作品を面白いと感じる。ねじくれた快感、ダークなものに触れる愉悦を、たしかに『アラバスター』から感じ取ったのだ。


手塚治虫のグロテスク趣味”は評論家などからよく指摘されることだが、この作品はその要素が非常に見えやすいかたちで露呈している。そのことは、主人公アラバスターの、本来なら皮下に隠れているはずの血管や筋肉が剥き出しになった顔に象徴的に表れている。
 グロテスクといえば、この言葉がそのままタイトルに使われている手塚マンガもある。『グロテスクへの招待』(1981年)という読切短編である。こちらは、グロテスクな描写があるにはあるが、『アラバスター』的な陰惨さや過激さはない。いずれ当ブログでも取り上げたいと思っている。


 アラバスターは、自分を裏切り嘲った人間たちへの憎悪や復讐心から、社会に反する犯罪活動に暗い情熱を傾けることになる。犯罪を行なうために城を築き、その閉鎖的な空間に仲間を集め、女王を置こうとするところなんて、狂信的・犯罪的なカルト教団を思い起こさせる。
 カルト集団が自分らの理念や正義や大義名分を持って活動しているように、アラバスターの復讐行為にも、とりあえずそれなりの理念・大義のようなものがあった。
 アラバスターは言う。「このアラバスターはな ほんとに美しいものが世界のどこかにみつかるまで美しいものをにくんでやるんだ」――
 美しく見えるものであっても、内側に醜いものが隠れている。正義のようなふるまいをしている人でも、裏では不正を働いている。そんな偽の美しさを許さない。というのがアラバスターの理念である。
 それはそれで彼なりの筋が通っているように思えるが、彼が実際にやっていることは“この世のまともに見えるものは何もかも許せない”という無差別的で非道な破壊殺戮行為であった。既存の世界を転覆させて、「アラバストピア」なるグロテスクな都市を建設しようだなんて、自分の復讐心を晴らしエゴを満たすだけのためにやっているとしか思えない夢想的なテロ活動である。アラバスターの一味に加わっている者ですら、アラバスターにはついていけない、アラバスターは信じられない、というふうになっていく。どんなに理念的なことを語ったところで、アラバスターがやっていることは狂信的で独善的な自己満足行為でしかないのだった。


 本作のヒロインは、“亜美”という少女だ。体を透明化する光線を発明した科学者は、自分の娘を実験台に使い、彼女を半透明の身体にしてしまう。このとき娘は胎内に子どもを宿していて、子どもを出産後に自殺した。
 その子どもというのが、亜美である。亜美は生まれたときは通常の身体だったが、成長するにつれ完全な透明になってしまう。亜美を引き取って母親代わりになった女性(小沢検事)は、透明な亜美の全身に白粉(おしろい)を塗って誰の目にも見えるようにし、学校へ通わせていた。アラバスターは、そんな境遇の亜美に同胞意識をおぼえ、仲間に加えて、自分が築いた城の女王として君臨させることで、自分らをこんなふうにした世界への復讐を成し遂げようとしたのだ。


 亜美の存在には、ちょっとアブノーマルなエロさを感じる。透明な亜美の全身に白粉を塗ると、全裸の亜美の姿が可視化される――。透明なままの亜美が水に濡れると、裸の体の輪郭が浮かび上がる――。そうした彼女の姿には、異色のエロティックな興趣がある。
 奇妙にアブノーマルである。
 こんなふうにノーマルじゃないエロスを描くのも、手塚マンガの特徴である。


 亜美は全身に白粉を塗っているので、その姿を見る人は、どうしても違和感を拭い去れない。そのため、学校では他の子どもたちにいじめられる。学校集団のなかで異質に見える子がいじめにあう……というのは、異種族間の衝突・異種族への差別といった事象に敏感な手塚マンガでよく描かれてきたことだ。私は、『鉄腕アトム』のアトムや『0マン』のリッキーがそういう目にあった場面を思い出した。異質な者に対する差別的・迫害的な行動は、まず子ども社会のなかで無邪気に、それだけに残酷に表面化する。それが大人社会では、もっと薄汚く、冷淡に、狡猾なかたちで行なわれることになる。そうした行動はむろん良くないことだが、人間の社会が続く以上根絶することのできない、人間の本質に根ざすものでもある、と私は感じている。手塚マンガは、そんな人間の本質をたびたび描いてきたのだ。


 アラバスターはとんでもなく強烈なキャラクターだし、亜美もまた強い存在感を放つヒロインだが、もう一人、それに拮抗するほど強烈なキャラクターが登場する。FBIの腕利きロック・ホームである。
 FBIなのだから正義の側のキャラクターのはずだが、このロックの性格はまことに悪魔的だ。『バンパイヤ』(1966〜67年、68〜69年)で、恐ろしく美しく賢く冷酷な犯罪者・間久部緑郎として悪の魅力をぞんぶんに放ったロックは、その悪の魅力を『アラバスター』でも覗かせている。『アラバスター』は、『バンパイヤ』の連載が終わった翌年に始まっており、悪の魅力を美しく放つロックのイメージは、手塚先生のなかでホットなものだったのだろう。
 ロックが全裸になった自分の全身を鏡に映して「ぼくは美しい……」と陶酔する場面は、ロックのナルシシズムが端的に表れている。アラバスターがパリの選り抜きの女性モデルたちを拉致したとき、ロックが女装して美女たちのなかに紛れ込んだ場面からも、同様の印象を感じる。自分は選り抜きの美女たちに匹敵する美しさを持っている――そんなロックのナルシシズムが伝わってくる。
 ロックは、個性的な顔を嫌悪している。ギリシャ人以外の民族の顔は皆嫌いだ、と言ってはばからない。ロックはギリシャ系の人間である。自分が属する民族の顔以外はすべて美しくない、皆嫌いだと言ってしまうのも、彼のナルシシズムのなせるわざだろう。人種差別主義的な発言でもある。
 本作は、アラバスターのルックスをはじめグロテスクな描写が多い。グロテスクが作品の主要なテーマになっているとさえ言える。そんなグロテスクに満ちた作品世界のなかにロックの美しさとナルシシズムが置かれることで、グロテスクがますます嫌なかたちで照らし出される。暗闇のなかに異常な明るさを置くことで、その暗闇がますます暗く映えるように。
 ロックは、そんなふうにナルシスティックな人物なわけだが、加えて、サディスティックな性格の持ち主でもある。それを強く感じさせるのが、透明になった(つまり白粉を落として全裸になった)亜美がロックから逃げる場面だ。亜美を捕まえたロックは、亜美を何発も叩いて池へ連れていき、彼女の全身を水に濡らして姿が見えるようにした。亜美がヌードだと知ったロックは、亜美に性的暴行を加える。さらに、亜美の全身に何色ものペンキを塗りたくる。亜美を逮捕するという職務を越えて、ひどい虐待行為を嬉々として行なったのだ。
 それまでの亜美は、アラバスターの一味に加わりながらもアラバスターのやることに恐怖や抵抗を感じていた。しかしロックから辱めを受けたことで、自分がノーマルな人間から見れば異端でしかないのだと痛烈に実感し、世界に対する憎悪をはっきりと抱くようになる。アラバスターはロックの非道を許せないが、結果として、ロックのおかげで亜美はアラバスターがそうなってほしいと望んでいたタイプに変わったのだ。皮肉なものである。


 アラバスター、亜美、ロックと、3者3様に悪魔的なキャラクターたちが、それぞれの悪魔性を発揮し、それそれがせめぎ合いながら、この物語は終局に向かって展開していく。
 この3者は、市民的良識や社会秩序といった観点から見れば“悪”である。手塚先生は、これらの悪が栄えたままでこの物語を終わらせることはしなかった。3つの悪は、それぞれに破滅的な末路を迎えるのだ。
 ロックは、ナルシシズムの根拠であった容姿の美しさを失い、アラバスターは自分をグロテスク化した光線によって完全に透明になって滅びる。そして亜美は、空高く浮かんだ気球から飛び降り自殺してこの世から消える。
 3人が迎えたそれぞれの末路が、3人が有する悪の性質とシンクロしているようだ。3人がおかしたそれぞれの罪にふさわしい罰がくだることでこの物語は終結したのだ、と私は感じる。


 亜美の死に方を見て、私は初期手塚作品『月世界紳士』のサヨコの死に方を思い出した。亜美は最後のところで、爆発・壊滅したアラバスターの城から義理の兄の手によって救い出されるが、気球に乗って社会へ戻る途中で「亜美が…もし助かっても どうせ亜美は死刑なのよ にいさんを苦しめたくないの これ以上…」と言って気球から飛び降りる。
 月世界人のサヨコは、スパイとして地球に送り込まれたのに、自分に愛情を注いでくれた地球のパパとママに情が移って任務を遂行できず、月世界の皇帝の命令に背くことになった。そのため月世界で死刑囚となる。そのうえ彼女は地球でスパイ活動をしていたのだから、月世界人だけでなく地球で世話をしてくれた人たちをも裏切っていたことになる。
 そんな立場のサヨコだったが、ロケットで月世界を逃れ、地球へ行けるチャンスを得た。ところが彼女は、地球に到着する前に「あたしはもう地球へは帰れません 月へも行けないわ」とロケットから飛び降り、死んでしまう。
 亜美もサヨコも、自分が暮らしていた社会を裏切る行ないをしながら、その社会へ戻れるチャンスを得る。だが、社会へ戻る途中、高所を飛ぶ乗り物から身投げして死を選ぶ。自分の味方である同乗者に、さよなら、と告げて……。
 自分にはもう戻るところがないという絶望が、彼女らに死を選ばせたのだ。
 もとはといえば、亜美はアラバスターに悪の道へ引きずりこまれたのであり、サヨコは月世界の任務を課せられたのであって、悪魔に魂を売ったような徹底的な悪人とは違う。むしろ、2人の性格を見れば2人とも“いい娘”という印象である(とくにサヨコは悪のイメージをまるで帯びていない)。
 だから私は、彼女らが救われなかったことを悔しく感じる。なんだか無念なものが心に残るのだ。