『光』


 「漫画王」1959年6月号〜12月号連載。
 同じ時期に「週刊少年サンデー」で連載された『スリル博士』と同様、探偵アクションものだが、『スリル博士』の探偵役たちがスリラー好きのため好奇心から事件に首を突っ込んだのに対し、『光』の主人公“光”は世直しという大義名分のうえで行動している。


 浮浪児だった光は、貧しくとも親切な大人たちにかわいがってもらいながら育った。ところが、そんな貧しき人たちの暮らす町がならず者に襲撃される。光をかわいがってくれていたおじさんは、瀕死の状態のなか「お金持ちなんかにならくてもいい! 悪者のいないところに生まれてきたい……」と言い残して命を落とした。光は「おじちゃん ぼくきっとそんな世の中にしてみせるよっ」と誓うのだった。
 光はそんな過去を持つ正義の青年だ。悪を倒すために各地をさすらっており、悪者の前に現れるときわざわざ予告したり、お決まりの歌を口ずさみながら登場したり…といった美学を持っている。
 そんなふうに正義のために美学を持って活動しているのに、光は行く先々で嫌われたり誤解されたりする。
 彼の貧しい生い立ちからも、正義の人なのに嫌われてしまうところからも、私はなんだか切なく暗いものを感じる。光という名前が皮肉っぽく見えることもある。
 光のやっていることを思えば、彼がもっと魅力的に見えたり感情移入の対象になったりしてもよいはずだが、私はどうも彼の魅力を薄めに感じてしまう。


 私が本作の登場人物で最も魅力的に思うのが、光を“あにき”と慕って行動をともにする“ペン公”だ。ペン公のバイタリティ、かわいらしさ、光を慕う思いが魅力的なのだ。
 ペン公の父親は悪人で、光の活躍によって牢獄に入れられていた。ペン公は父親のかたき討ちのため光に近づいたのだが、行動をともにするうちに光を慕うのようになったのだ。
 ペン公はルンペンの扮装をしていて、スリを得意とする。男の子のように見えるけれど、実は女の子だ。手塚ファンのあいだですでに指摘されているとおり、光とペン公の関係は『どろろ』における百鬼丸どろろの関係の原型になっている。光は悪を退治するために放浪し、百鬼丸は妖怪を退治するために放浪する。2人とも長髪のイケメン青年である。そして、ペン公とどろろは、物をかっぱらうのが得意な小さな子どもで、ふだんは男の子のようにふるまっているが実は女の子だ。2人とも、光・百鬼丸のことを“あにき”と慕って旅のおともをしている。
 光とペン公の関係は、百鬼丸どろろの関係となって改めて入念に描かれたのである。


 ペン公とどろろが本当は女の子なのに男の子の扮装をしているところは、『リボンの騎士』のサファイアを思い出させるし、両性具有的なキャラクターという意味では、アトムの原型的キャラである『メトロポリス』のミッチイとも印象が重なったりする。というかアトムだって両性具有的に見えるキャラクターの一人だ。そうした存在は、私のなかにある性の同一性や性に対する固定観念を揺さぶる力を持っている。ある種のカルチャーショックである。手塚マンガを読むことには、そういう醍醐味もあるのだ。


『光』のラストは悲しい。ペン公に魅力を感じながら読み進めてきただけに悲しい。その悲しいシーンが、急ぎ足な展開で幕を閉じていて、私としてはあっけなさを感じざるをえず、そのことも少し悲しい。