『赤の他人』『すべていつわりの家』


 前回取り上げた『グランドール』のなかに“主人公・哲男の母親がいつのまにかグランドール(生き人形)と入れ替わってしまっていた”というくだりがある。
 長年同じ屋根の下で共に暮らしてきた、最も近しい存在である親が、知らないうちに他の存在と入れ替わってしまっていた……。そのうえ何食わぬ顔でこれまでのように生活を続けている……。あるきっかけで、そんな親の存在に違和感をおぼえるようになり、結果、じつは親が別の存在と入れ替わってしまっていたことを知る……。子どもにとって、その体験がどれほど深い不安、恐怖、衝撃をもたらすかは想像にかたくない。当たり前のように親だと思って生活してきた人間が実は親とは別の何者かだったなんて、子どもからしたら全世界が根底から転覆するかのような途方もない感覚だろう。



 親がいつのまにか別の存在と入れ替わってしまっていることの恐怖を描いたマンガとして、私は楳図かずお先生の『ママがこわい!』をただちに思い出す。自分のママがヘビ女と入れ替わってしまう、しかも自分を食おうとするのだから、そりゃあ怖いったらありゃしない。
 そして、手塚マンガに限って言えば、『グランドール』以上にそのことを歴然とテーマに据えた『赤の他人』という短編作品が思い当たる。『赤の他人』は、「デラックス少年サンデー」1970年2月号で発表され、単行本としては講談社手塚治虫漫画全集『SFファンシーフリー』などに収録されている。



 主人公のアキラは中学生。自分と一緒に暮らしている両親が本当の両親ではないように感じられてならない。両親ばかりではない。学校へ行けば教師がいかにもインチキくさく感じられるし、自分の周囲の世界もまた本物でないように思える。そして、自分の一生がすべて誰かに操られ、誰かに観られているような気がする。
 アキラは言う。「ぼくの一生ってのはね なんか…こう劇みたいになってて すじがきが全部できてるんじゃないかしら その劇のぼくをお客が…どっかでぼくを見守っているんじゃないかしら」「ぼくのまわりのけしきは 全部セットで ぼくが毎日会う人間は親でも近所の人でもみんなほんとの人間じゃないんだ ぼくをあやつってる連中なんだ ほんとうのことを隠しているんだ」
 こういう感覚は、まさにアキラくらいの年齢の多感で鋭敏な少年少女が抱きやすいものだろう。この世に実在するのは自分の意識だけで、自分が会う人々も自分の体験も周囲の景色も人類の歴史もその他もろもろの情報も、自分の意識が生み出した妄想、あるいは自分を騙すために仕組まれた幻惑でしかない…。自分以外の他者や世界の実在が疑わしくてしかたがない…。そういう感じ方は「独我論」といって、哲学の分野でよく扱われるものだが、アキラの場合は、自分が会う人や自分の周囲の世界を偽物だと疑ったうえ、自分の人生は何者かに演じさせられている劇のようなもので常に観衆の目にさらされている、という感覚も抱いている。アメリカの映画『トゥルーマン・ショー』(1998年)はそんな状況に現実に置かれてしまった男を描いている(『トゥルーマン・ショー』はフィリップ・K・ディックの小説『時は乱れて』(1959年)を参考にしているらしい)が、手塚先生の『赤の他人』でも、アキラのその感覚がアキラ個人の妄想や錯覚や違和感などで済まされず、本当にアキラが感じていたとおりの真相が描き出されるのである。
 はたして、真相を目の当たりにしたアキラの運命は…!?



 両親だと思っていたものが実は違う存在であった、という手塚マンガとしては、ほかに『すべていつわりの家』がある。「月刊少年マガジン」1976年10月号で発表された読切作品で、手塚治虫漫画全集『メタルフォーゼ』などで読むことができる。
 主人公は“久(きゅう)という名の男の子だ。彼は、ビルがどろどろと溶けて人間が真っ黒焦げになる夢を頻繁に見るようになった。地球の終わる夢だ。その夢を見るようになった頃合から、久は、身の回りに起こることに違和感をおぼえるようにもなっていた。母の体は水のように冷たいし、不自然なほど厳しく町へ遊びに出てはいけないと言われるし、持っている本のページが一瞬真っ白になったりもする。何かが、どこかが、おかしい。
 久は周囲の人々や環境になんとなく違和感をおぼえる、といった程度ではなく、母の体が冷たいとか本のページが真っ白になるといったふうに物理的な感覚としておかしさを感じている。思春期にみまわれる一時的な違和感では済まない何かが隠されている。それはいったい何なのか?と私はページの先をめくりたくなった。



 久は、ある期間の記憶をすっぽりと失っていて、気づいたときには学校が夏休みに入っていたという。夏休みに入る前から何日かの記憶がないのだ。
 彼の記憶が失われていたその期間に何があったのだろう?私は、その謎に魅力を感じ、謎の正体を知りたい気持ちを強めた。
 その何かとは、あまりにもどでかく、あまりにも衝撃的な出来事であった。夏休みの始まる日に世界が核戦争で滅びてしまったというのだ。久が頻繁に見る夢は、滅びた世界の光景だった。久が実際に体験した光景だったのだ。
『すべていつわりの家』は、終末モノの一種だったわけである。地球上の人類が滅びたあとの世界を描いた作品だったのだ。



 全世界の人間でただ一人生き残った久。彼は、ある存在に助け出されることで命をつないでいた。
 無残な状態と化した地上世界から久を救い出し、彼の両親や彼が暮らしていた環境を再現してあげた存在がいるわけだが、その正体にも驚かされる。久の環境が再現された場所は実は地獄で、それをしてくれたのは悪魔だったのだ。
 こういうとき人間を救ってくれるのは神ではなかったか。そのはずなのに、神は人間をあっさりと見放していた。「勝手に人間はほろびるがいい 知ったことじゃない」と――。冷たい。あまりにも冷たい。
 せめてたった一人生き残った久にだけでも手を差し伸べてくれればよいものを、神は「ひとりぐらい助けたってわりがあうまい?」などと、まことにつれない反応だ。なんと世知辛く冷淡な効率優先の判断をくだす神様であることか……。



 真相を知った久が神に助けを求めても、神はやはり冷たかった。「バカ 迷惑だ おまえなどさっさと死んじまえ」とあまりにもストレートに乱暴な言葉をぶつけてくる神までいる始末だ。久に最後通告した神は「こっちもいろいろと予算のつごうでな こんかいはすくわんと決めたンよ」と、ここでも世知辛い経済効率優先の判断が表明されるのだった。しかも、非常にあっさりと。ニーチェじゃなくとも「神は死んだ」と言いたくなるではないか。
 うーん。なんだか神に言いすぎた気がしてきた…。神から見れば、自分らで勝手に核戦争を起こして滅亡するなんて、人間の自業自得もいいところだし、そんな人間たちなんてまったく救う気になれないし、そもそも救いようがない、と思っても当然だろう。旧約聖書に、神は地上の人間の堕落に怒って大洪水を起こし、人間を(一部を除き)滅ぼそうとした、というエピソード(「ノアの方舟」)があるくらいだから、人間の愚かさに厳しいのが神であるともいえる。
 それはわかる。わかるのだけど、「ひとりぐらい助けたってわりがあうまい?」「こっちもいろいろと予算のつごうでな こんかいはすくわんと決めたンよ」という態度はあまりにもそっけなく、あまりにも非情ではないか。



 そんななか、捨てる神あれば拾う神…ならぬ拾う悪魔がいてくれてよかった!
 神の冷淡さが身に沁みれば沁みるほど、悪魔のやさしさに心を打たれる。神と悪魔の立場が転倒したような価値逆転の感覚とともに。悪魔のやさしさに触れられるなんて、不思議なうえ妙に心あたたまる体験だ。
 久を救うことを決断した悪魔たちは、急に良心にめざめて仏の心を宿したわけではない。悪魔は元来神のアンチとして存在している。人間を救わない神に対するアンチ行動は、人間を救うことである。だから、人間を救おうということになったのだ。加えて、人間があってこそ悪魔が食っていける、という実利的な理由もあった。
 それでも悪魔たちが意地でも久を救おうと一致団結するシーンは、悪魔のなかに潜む正義を見いださせてくれる。



 ラストシーンは、悪魔と人間のやりとりとは思えぬほどジーンと胸に響くものだ。神に突き放されて悲嘆にくれる久。久の両親そっくりに化けた2匹の悪魔が、そんな久に希望を与える言葉をかけて、励ますのである。
 その励ましの言葉は、地上で滅亡した人類が再興する未来をいくばくか期待させてくれるものでもある。悪魔が久に贈り、久が悪魔から受け取ったその希望は、すべての人類の希望なのだ。