『サンダーマスク』

 
 ・手塚治虫漫画全集『サンダーマスク』(講談社


『サンダーマスク』は、1972年(昭和47年)10月3日から1973年(昭和48年)3月27日にかけて日本テレビ系列で放映された特撮番組である。全26話。東洋エージェンシーとひろみプロダクションの共同製作だった。私は子どものころリアルタイムで観ていた。細かいことはほとんど覚えていないが、まちがいなく観ていた、という記憶だけはある。現在では大人の事情でソフト化も再放送もなく、封印状態にある。


 さて、ここで私が語りたいのは、手塚先生が描いたマンガ版『サンダーマスク』である。「週刊少年サンデー」1972年(昭和47年)10月8日号から1978年(昭和48年)1月7日号まで連載された。テレビ版と並行するかたちでの連載だった。テレビ企画が先行しており、手塚先生には珍しいパターンである。手塚先生は、そういう形式があまり得意ではなかったのだろう。マンガ版『サンダーマスク』は、手塚マンガの失敗作として挙げられることが多い。手塚先生が手塚治虫漫画全集『サンダーマスク』のあとがきで書いているように、ほんとうはもっと長くなるはずだったのに出版社の都合で終わってしまったことも、失敗作との評価を生む原因になっているのだろう。
 私もこれが傑作だとか成功作だとかヒット作だとは思わないけれど、どうしようもなくつまらない、ということはなく、そこそこおもしろく読めた。


 一言でいえば本作は、善玉と悪玉が戦うヒーローものである。善玉のヒーローは「サンダーマスク(サンダー)」、悪玉は「デカンダー」という図式だ。サンダーもデカンダーも、宇宙のどこかから1万年の歳月をかけて地球にたどり着いた“生きたガス体”である。気体生物なのだ。サンダーは炭素生物、デカンダーは珪素(作中の表記は、硅素)生物であるいう。どちらも気体生物なので地球上で生きていくには肉体を欲するのだが、そこで両者の立場がくっきりと分かれる。炭素生物であるサンダーが地球上の生物に乗り移っても害を及ぼさないのに対し、デカンダーは珪素生物なので害を及ぼしてしまうのだ。デカンダーが及ぼす害とは何か? デカンダーと地球上の生物が混じると、その生物が石化してしまうのである。デカンダーが地球上にずっと滞在すれば、人間をはじめ地球の生物がどんどん石になって、やがて滅びしてしまう、というわけだ。


 サンダーに肉体を貸す人間は、「命光一」という少年である。命光一の体に乗り移ったサンダーは、サルやクモなどに乗り移ったデカンダーと戦っては撃退していく。そのさい、サンダーの容貌が地球人から見たらちょっとおそろしげだったので、作中人物の手塚治虫がサンダー用のマスクとスーツをデザインする。そのマスクとスーツをかぶったサンダーこそが、すなわち本作のヒーロー、サンダーマスクなのである。


 デカンダーは珪素生物であるがゆえに地球生物に害をなし、サンダーは炭素生物なので害をなさない。そんなケミカルな理由で、善と悪が画然と線引きされてしまう。悪であるデカンダーと戦ってくれるから、サンダーは善となるわけだ。同じように地球へ飛来したのに、自分を組織する物質の違いで、一方は善となり、もう一方は悪と見なされる…。それはデカンダーにとってみれば、自分の意志でそうなったわけではないのだから、どこか理不尽に感じられるかもしれない。たしかに、生まれつきの体を構成する物質が地球生物にどんな化学反応を引き起こすのか…といった理由で善悪を決められてしまうなんて、当人からしたら納得できないものはあるだろう。だが、自分が地球生物に害を与えると知りながらも地球にとどまって、地球生物の体に乗り移ろうと決めたのはデカンダー本人の判断であり、この点はデカンダーの主体的な意思・自己責任である。だからやっぱり、デカンダーは地球生物の立場から見れば疑いようのない悪であって、ほとんど同情する気にはなれない。


 デカンダーは、地球生物に乗り移ろうにも、なかなか自分に合った体が見つからなかった。だから少しでも合う生物を探した。ようやく探し当てたのが、「高瀬まゆみ」という少女の体だった。まゆみは横浜のミッションスクールの生徒で、美少女である。本作のヒロインといえよう。彼女が作中に初登場したときはヌード姿であり、少年読者へのサービスになっている。
 まゆみの父は「高瀬博士」といって、地球に落下したサンダーの発見者である。サンダーの謎を追って研究するうちデカンダーに目を付けられ、殺害されてしまう。そして、その高瀬博士の娘であるまゆみの体にデカンダーは乗り移ることになったのだ。
 まゆみは、デカンダーが乗り移るのにふわさしい体を持ってしまい、実際に乗り移られた。悲劇のヒロインである。そんなまゆみと主人公の命光一が出会いをはたす。二人は会って話をするうちに互いに惹かれ合っていく。主人公の少年と美少女ヒロインの、ほのかの恋…。それは、少年マンガである本作にとって、ほんのりと甘い調味料たりうるのだけれど、この恋は一瞬の甘さののち悲劇的な色彩を帯びていく。サンダーに体を貸す光一と、デカンダーに体を乗っ取られたまゆみは、敵対関係にならざるをえない運命なのだ。どちらかが撃退されるまで、ずっと戦わなければならない。サンダーおよびデカンダーに体を貸している最中は、人間の記憶がまるでなくなっているため、当初の光一は、サンダーが戦っているデカンダーの体がまゆみであることを知らなかった。途中で真実を知ることになり、二人の皮肉な運命に心を重くするのだった。
 まゆみ「あたしたち敵同士なのね……」
 光一「まゆみさん ぼくたちは敵どころか友だちだろ 敵同士なのはサンダーとデカンダーのほうなんだよ」
 まゆみ「でも光一さんとあたしとは知らないあいだに戦ってるんだわ」「どっちかが死ぬまで………なのね……」
 そんな悲しい会話が交わされる。


 最後にはサンダーマスクがデカンダーを宇宙のかなたへ吹き飛ばし、地球はデカンダーの魔の手から救われる。だが、長時間デカンダーに体を乗っ取られていたまゆみは石になってしまった。ここで注目したいのは、デカンダーとまじわることで石になった地球生物は、けっして命のない鉱物になってしまったわけではない、という点だ。石そのものではなく、まるで石にしか見えない珪素生物に変化してしまったのである。だから、まゆみも見た目には石像なのだが、じつは珪素生物としてまだ生き続けている。地球人の目には動いているように見えないけれど、ほんのわずかずつ動いているのだ。細かく観察していれば、5年経って手の指の位置が少し変わっていることを確認できる。そのくらいの遅さで動いているのだ。


 そうやってこの物語は幕を閉じるのだが、仮にデカンダーのほうがサンダーマスクに勝利して地球にずっと滞在し続けたとしたら、どうなっていたのだろうか。その仮定状態を考えたい。
 デカンダーが地球に居座り続ければ、やがて地球上の生物がみんな石になって滅びてしまう。そういう話であった。だが、石になってしまったといっても、それは珪素生物という別の生物に変化することだから、地球生物が滅びてしまうというのとはちょっと違うのではないか。地球は炭素生物から珪素生物の生息地へと刷新されていく。生物としてのありようがガラリと変わるだけで、地球生物や人間が滅びたり減ったりするわけではないのである。地球上の生物がすべて珪素生物にリニューアルされたとき、はたしてその生物界は従来の炭素生物の世界と比べて不幸な状態なのだろうか。もしかすると、炭素生物の世界よりもいろいろな問題がクリアされて、多くの生物にとって住みよい環境になるのかもしれない。そう仮想してみれば、デカンダーが勝利した場合の地球も決して否定的なものではない、と思えたりもするのだ。
 とはいえ、「自分は炭素生物である」という現状の感覚・常識のなかでは、珪素生物に変質するなんて絶対に嫌だし不幸なことだと感じてしまう。その現状の感覚を越えて実際にすべての地球生物が珪素生物に変わったとしたら、我々はその状態を不幸だと感じるだろうか。


 ○命売ります
 命光一がサンダーに身体を貸すことになった経緯はこうだ。光一はある工業地帯に住んでいた。公害のため胸を痛め、もう長くは生きられない、と医者から宣告される。光一は、どうせもう生きられないのだから、と自棄気味な生活を送るようになり、「命売ります」と書いた手持ち看板を抱えて街を歩いた。自分の命を一千万円で売ろう、というのだ。その買い手となったのが、高瀬博士であった。高瀬博士は光一を研究所に連れていき、サンダーに体を貸す役割を光一に命じたのだ。
命売ります」といえば、三島由紀夫にこのタイトルの小説がある。1968年に「プレイボーイ」で連載され同年集英社から単行本が出ているので、『サンダーマスク』より4年ほど前の作品となる。命光一が「命売ります」と看板を掲げるアイデアの源流は、三島のこの小説だったのではないか。
 三島の『命売ります』の主人公は、自殺に失敗し、もう生きることに執着がなくなった。そこで自分の命を売る商売を思いつき、「命売ります」と新聞広告を打つ。『サンダーマスク』の命光一は手持ち看板で宣伝し、三島の小説では新聞広告で宣伝している。後者のほうがマスメディアを使っている分、より大勢の人に情報が届く宣伝方法である。
 三島の小説で「命売ります」の商売を始めた主人公は、田中羽仁男という男である。羽仁男は、生きることに執着しなくなった、いつ死んでもいい、と思うからこの商売を始めたわけだが、命光一の場合は、自分の命がもう長くないからとやけっぱちになって「命売ります」を始めた感じなので、少しニュアンスが違う。
 羽仁男は広告会社でコピイ・ライターの仕事をやっていて、才能を認められ、相当の月給ももらっていた。ところが、ある日の夕方スナックで夕刊を読んでいるうちに急に死にたくなった。夕刊の記事にはいろいろな事件が載っていたが、羽仁男はどの記事にも心を動かされなかった。それから、ピクニックでも行こう、というように急に自殺を考えた。しいて理由をいえば、ぜんぜん自殺の理由がなかったから自殺したくなった、としか考えられない。
 もう少し自殺の理由を探せば、こんな言い方もできた。読んでいた夕刊からずり落ちた内側のページを拾い上げようとしたら、落ちた新聞の上でゴキブリがじっとしていて、手を伸ばすと同時にそのゴキブリが逃げだして活字の間に紛れ込んでしまった。新聞を拾い上げて目を通したら、読もうとする活字がゴキブリになってしまい、それでも読もうとすると、活字が赤黒い背中を見せて逃げていった。それを見て「ああ、世の中はこんな仕組みになってるんだな」と突然わかり、わかったら無性に死にたくなった、というのだ。でも、それは説明のための説明に堕している、と羽仁男は思う。
 とにかく羽仁男は、表面的には恵まれた日々を送り、健康にも問題がないのに、新聞の活字がゴキブリに見えてしまったことで死にたいと思った。思うだけでなく実際に自殺をはかり、自殺に失敗して生き残ったので、「命売ります」の商売を始めたのだ。なんというか、非常に観念的で曖昧で身勝手といえば身勝手な動機から「命売ります」を始めたわけである。
 それに対して『サンダーマスク』の命光一は、まだ若くて生きていたいのに、公害という外的な要因から重い病気にかかり、長くは生きられない体になってしまい、そのため自棄になって「命売ります」を始めている。羽仁男よりは命光一のほうに同情したくなるし、切実なものを感じる。ただし、光一の事情のほうが常識的に理解できるぶん、羽仁男の心理に潜んだ言い知れない何事かに興味がわいてくる面もある。
 三島由紀夫の文章といえば絢爛たるイメージがあるが、『命売ります』は「プレイボーイ」に連載されたことからもうかがえるとおり若者向けの娯楽小説とあって、三島にしてはスラスラと読める通俗的な文章で書かれている。三島なのに一気読みの欲求をかりたてる、おもしろいエンタメ作品なのだ。


 ○炭素生物と珪素生物
 「炭素生物と珪素生物」という二項対立的な生物のありようは、SFマインドがにじんでいて興味深い。われわれ地球人は炭素生物であるから、それとはまるで異なる生命活動のありようを持った珪素生物は、われわれの存在を根底から揺るがすアンチ・テーゼとなろう。
 珪素生物とは何か…。作中で手塚治虫が解読したバイブルのなかで、このように説明されている。
「硅素型のはからだの中に硅素(シリコン)をふくむもので いわば石のような生きものだ うんと高熱の惑星に住み酸素のかわりにフッ素をすいアンモニアをたべている」「石のような生きものだから うんとゆっくり動き ちょっと見ると 石のようにしか見えない」
 その様態は、われわれ炭素生物の常識に照らせば信じがたいほど異様だが、逆に、珪素生物からわれわれを見たら、われわれの姿や生態こそがまったくもって異様だろう。どちらに視点を置くか、どちらの常識の内側にあるか、の違いである。普段は当たり前だと思っている自分の存在や常識が、“生物としてのありよう”という根本的なところで相対化され、揺り動かされる。それは、SFを読む醍醐味のひとつである。ただ、『サンダーマスク』は、少年向けヒーロー活劇という枠組みのため、炭素生物=善、珪素生物=悪というくっきりした図式で描かれている。それゆえ、珪素生物の存在を突き付けらることによって自分ら炭素生物の存在が相対化される、という感覚は薄いのだが、ここでは、私が勝手に相対化云々へと話を進めてしまった。
 地球が珪素生物ばかりの星に変貌した場合どうなるのか…、珪素生物も炭素生物も平等な生物であって炭素生物ばかりが正しいわけではない…といった視点がもう少し作中に盛り込まれていたら、『サンダーマスク』を本格的SFマンガとしてもっと堪能できたのかもしれない。でもそこで見方を変えれば、手塚先生だからこそ善と悪の対立が明快なヒーロー活劇にそうしたSFの醍醐味を多少なりとも加味することができたのだ、と言うこともできる。


 珪素生物が登場する物語というと、アイザック・アシモフのSF短編小説『もの言う石』(ハヤカワ文庫『アシモフのミステリ世界』所収)が代表例だろう。SFでありつつミステリでもある一編だ。この作中で、珪素生物は「シリコニー」と呼ばれている。皮膚は、見た目には油じみて滑らかで灰色。石の中に潜伏して生息しており、それ自体なかば石のような生物で、動きは緩慢。皮膚の下には筋肉のうごめきは認められないが、そのかわりに、ちょうど幾枚もの薄い石の板が交互にスルスルと横滑りするように層をなして動く。全体は卵形で、上が丸く、底は平らで、二組の付属器官がついている。底からは放射状に“脚”が出ている。脚は6本ある。脚の尖端は火打石のような材質で、さらに金属の付着物で補強されている。それらの尖端は、岩を細かく砕くことができる。岩を食べるためだ。裏返しにしてみると、底面には内部に通じる穴が開いている。砕いた岩をそこから摂取するのだ。岩が穴の中に入ると、石灰石と水化珪酸塩が反応して、その生物の組織となる珪素を形成する。余った珪土は穴から堅い砂利のような排泄物となって吐き出される。そして、言葉を教えれば、しゃべることができる。岩の表面の擦れ合う音が言葉となる。
 そんな特徴を持っている。
 この小説に出てくるシリコニーは人間に捕獲された状態で登場するが、もとは小惑星帯のなかのどこかの小惑星に棲んでいた。固体のシリコンを組織とし、液体のシリコンを体液とする唯一の生命形態であるという。
『サンダーマスク』に登場する珪素生物は、高熱の惑星に棲んでいて、フッ素を吸いメタンを飲みアンモニアを食べる。そうした生態を、『もの言う石』の珪素生物と比較してみるのも一興だろう。石のような見た目で、動作が遅いところは、どちらの珪素生物にも共通しているが、その動作の速度は『サンダーマスク』の珪素生物のほうが圧倒的に遅い。『もの言う石』のほうは、動いているのが肉眼でもちゃんとわかって、それは石のようだけれど本当は生物なのだと視認できるのに対し、『サンダーマスク』のほうは5年経ってようやく指の位置が少し変化する程度であり、肉眼だと石像にしか見えない。そして、『サンダーマスク』に悪役として登場するデカンダーは、珪素生物がガス化した状態であり、他の地球生物の肉体を借りないと気体のままである。


 ○デカンダーに味方する地球人
 先に私は、『サンダーマスク』は炭素生物=善、珪素生物=悪というくっきりした図式で描かれているため、珪素生物の登場によって炭素生物である地球人の存在が相対化される感覚は薄い、と書いた。そして、地球が珪素生物ばかりの星に変貌した場合の可能性や、珪素生物も炭素生物も平等であって炭素生物ばかりが正しいわけではないという視点などがもう少し織り込まれていたら、本作をもっとSFマンガとして堪能できたかもしれない…などと述べた。ところがじつは、珪素生物が自分らにとっては善であるとする立場の地球人も作中に登場している。つまり、すべての地球人がデカンダーを敵ととらえるのではなく、デカンダーに味方する者もいて、「炭素生物ばかりが正しいわけではない」という視点も見られることは見られるのだ。
 ヒロイン高瀬まゆみが通うミッションスクールの地下に「オミクロン」なる陰謀団が組織されていた。その陰謀団の主要メンバーには、ミッションスクールの校長がいる。オミクロンは、一年前にデカンダーを発見し、その秘密を知って、崇拝していた。オミクロンは、珪素生物デカンダーこそ、人間が増えすぎたためこのままでは滅びるであろう地球を改造し、新たな楽園を築き上げる救世主のように受け止めている。そのため、乗り移る肉体を欲していたデカンダーに高瀬まゆみを差し出した。神を崇める清廉潔白なミッションスクールの校長が、宇宙から来た悪魔的な生物に魂を売り、まゆみを悪魔への生贄として差し出したのだから、やることが転倒して見える。
 このように、地球人にもデカンダーの味方がいて、デカンダーによって刷新された地球こそが楽園なのだという考え方だってあるのだと示すことで、炭素生物であるわれわれの存在や文明のほうがじつは誤っているのかもしれない…という可能性もほのめかされるのだ。それでも、デカンダーの味方であるオミクロンは、いかにも不気味で悪そうな秘密の陰謀団として描かれているので、デカンダー=悪という図式を強く揺さぶるところまでは行っていない。
 あくまでも、サンダーと大半の地球人が善であり、デカンダーとオミクロンは悪なのである。その枠組みは守られている。だから、本作を素直に読んでいれば、「炭素生物ばかりが正しいわけではない」というのは悪の組織オミクロン限定の考え方であって、その考え方は間違ったものなのだ、と受け止めることになる。


 ○タイムリミット
 サンダーが命光一の体に乗り移っていられる時間は10分間である。タイムリミットが定められているのだ。これを超えると、サンダーの分子と人間の体の組織が拒否反応を起こして爆発してしまう。これは、強いヒーローであるサンダーマスクが持つ、わかいやすい弱点だ。特撮スーパーヒーローの先輩格にあたるウルトラマンの地球上での活動時間が3分間に限定されていたのを思い出す。サンダーマスクでもこのアイデアを使って、敵と戦うときのハラハラドキドキ感を高め、格闘場面を盛り上げる効果を狙ったのだろう。実際、サンダーマスクとデカンダーの最大の格闘場面で、このタイムリミットのアイデアが発動されている。それによって、この格闘場面においてはサンダーマスクが破れてしまう。


 ○二重の変身
 先述のとおり、サンダーは命光一の体に乗り移って肉体を得る。その姿が地球人の感覚では異様に見えたので、手塚治虫デザインのマスク&スーツをかぶって活動する。つまり、サンダーマスクは二通りの変身をしていることになる。すなわち、命光一(普通の人間の姿)→サンダー(鳥と人間の中間のような異様な姿)→サンダーマスク(スーパーヒーロー然とした姿)という段階で変身しているのだ。
 命光一の姿から異様なサンダーの姿に変わるときは、肉体をもった地球人と気体生物であるサンダーとの化学的融合がおこわなれている、と推測できる。それに対し、異様なサンダーの姿からサンダーマスクの姿に変わるときは、マスクとスーツをかぶるというアナログ変身なので、あたかも特撮番組でスーツアクターがヒーロー用スーツを着用するようなイメージを帯びている。


 ○気体生物
 サンダーもデカンダーも気体の生物である。気体生物の出てくる他の手塚マンガとしては、『鉄腕アトム』「気体人間の巻」が思い当たる。以前当ブログで取り上げている。
 http://d.hatena.ne.jp/magasaino/20140411



 ○愛知県民にとってのポイント
『サンダーマスク』で非常に個人的な理由から印象深いのは、第1章「プロローグ」の冒頭だ。名古屋の場面から始まって、セリフの中に「犬山モンキー・センター」が出てくる。ほんのそれだけのことだが、愛知県民である私は愛着を抱きたくなるのだ。
 作中人物の手塚治虫は、『サンダーマスク』の始まりから終わりまで登場する主要人物だが、その初登場場面で手塚治虫がいたのが、ほかならぬ名古屋であった。名古屋青少年ホールで開催中の日本SF大会に出席していたのだ。その最中にこんなニュースが流れる。「きょう五時頃名古屋市郊外の犬山モンキー・センターからセレべレス産のクロザルが逃げだしました!!」。サルが逃げだしたことについて、手塚治虫は記者から意見を求められる。
 そんなふうに名古屋とモンキー・センターが登場するのだ。手塚マンガで愛知が舞台になるなんて珍しいので、それだけでなんだかうれしかったりするのだ。