『ブタのヘソのセレナーデ』

『ブタのヘソのセレナーデ』は、「週刊少年ジャンプ」1971年5月24日号で発表された読切作品である。「週刊少年ジャンプ」における「ライオンブックス」新シリーズの3作めにあたる。講談社手塚治虫漫画全集ゴッドファーザーの息子』などで読むことができる。



 本作を読み始めたとたん、ちょっとショッキングな場面に遭遇する。ビルの屋上から垂らしたロープで首を吊る青年が描かれているのだ。首吊り自殺をはかっているようにしか見えない。「冒頭から自殺シーン!?」と驚かされ、不穏な空気を感じつつ目を奪われる。
 この場面が目に飛び込んだ瞬間はショッキングな始まり方だと感じたが、よく見ると、首を吊る青年の表情が妙にとぼけている。自殺をはかった人間が浮かべるシリアスさや陰が感じられない。青年を眺める観衆もなんだか冷めた反応で、これといってショッキングな演出ではない。本来ならショッキングな場面のはずなのに、ショッキングな雰囲気で描かれていないのである。「どういうこと?」と気になってくる。



 ビルで首吊りをする青年の名は「ゴスケ」という。実のところ、彼は自殺するつもりで首を吊ったのではないのだ。
 とにかく何でもよいから有名になりたいと東京へ出てきたゴスケは、漫画家、小説家、歌手などいろいろな職業に手を出すが、どれもうまくいかない。赤軍派に志願してもダメ。そんなとき、デパートからぶら下がって自己PRする新人歌手の記事を見かけ、それを真似しようと考える。その新人歌手はPR目的なので胴体にしっかりロープを巻いてぶら下がっていたのだが、ゴスケはおっちょこちょいで、胴体ではなく首にロープを巻いてぶら下がってしまった。そのため、結果として、まるで首吊り自殺ショーのような格好になってしまったのである。



 意図的ではなかったにせよ、ゴスケは人通りの多い場所で首吊りをして見世物のような状態になった。それを目撃した通行人たちが驚いて大騒ぎになれば、有名になりたいゴスケにとっては願ったりかなったりであろう。ところが、路上からゴスケの首吊りを見物する人々の反応は一様に冷めていた。どうやら、この作品の舞台となる時代の日本では、首吊りを見世物にすることが珍しくないようなのだ。このくらいのことでは有名人になれないのである。
 首吊りを見世物にするのが珍しくない社会だから、その時代の日本は退廃しているというか、何かおかしな時代になっているというか、今の我々が生活する日本とはどこか違っていると感じられる。いや、今の日本だって問題山積でおかしいといえばおかしいにちがいないのだが、今の日本と作中の日本は、そのおかしさが微妙に異質なのだ。
 その異質さのなかで最も明瞭な差異というのが、作中の日本では核兵器が製造されるようになっている点である。『ブタのヘソのセレナーデ』は、冒頭のナレーションで「これは日本でも核兵器がつくられるようになったある年の物語である」と宣言して始まっており、ひとことでいえば「核兵器を題材とした破滅モノ」だったのだ。
 日本がなぜ核兵器を造る国になったのか。その経緯や背景は作中でぜんぜん描かれていないが、日本の国是であるはずの非核三原則核兵器をもたず、つくらず、もちこませず」はとっくに破棄され、憲法すらも変えられているのだろうと思われる。



核兵器を題材とした破滅モノ」だなんて、とんでもなく深刻で悲惨なテーマのはずだが、にもかかわらず本作は全体的にドタバタコメディのノリで描かれていて、シリアスな雰囲気がほとんど感じられない。扱っているテーマは重いのに、その語り口は軽い。そうしたテーマと語り口のズレに独特の面白さがある。
 終始ふざけたムードで話が進んでいくことで、核兵器という人類史上最大級の悪魔的な道具をからかいながら批判しようとする姿勢を感じとれないこともない。でも、そうした生真面目な批判精神など軽くどこかへ追いやってしまうくらい、この作品はドタバタに徹している。


 では、この作品で核兵器は具体的にどのようの描かれているのか?
 誤って首吊りをして死にそうになったゴスケは、あるグラマーな女性に命を救われる。その女性は「巴博士」という科学者で、あろうことか、ゴスケを手術して彼の体内に原爆を埋め込んだという。ゴスケは世界初の人間核兵器になってしまったのである。
 ヘソが起爆スイッチらしく、その事情を知る人々はゴスケのヘソに神経をとがらせることになる。じつは、ゴスケ自身は詳しい事情を聞かされておらず、自分の置かれた状況がよくわかっていない。ゴスケが不意にヘソをさわろうとすると皆が恐れおののくため、自分のヘソに何かあるんだと気づいた程度である。



 ゴスケは、自覚のないまま人間核兵器になり、そのことによって念願の有名人になれた。何でもよいから有名人になりたかった主人公がついに有名人になれたのだから、これはめでたしめでたし、と結びたくなるところだ。だが有名人になれた理由が理由なので、単にめでたがってばかりいるわけにもいかない。
 人間核兵器となったゴスケは、きわめて扱いが困難で危険な重要人物である。世の中ではゴスケをめぐっててんやわんやの大騒ぎが始まっていく。
 人間核兵器だなんて、非常に深刻で物騒で非人道的な話だが、前述のとおりこの作品にはまるでシリアスな雰囲気がなく、人間核兵器となったゴスケを軸に大がかりなドタバタ劇が展開される。大がかりだけど妙にふざけたドタバタ劇である。
 そのドタバタ劇では、手塚先生の悪ノリが炸裂している。ゴスケに総理大臣や自衛隊やヤクザの総長といったお偉方が続々と会いにきたり、アメリカやソ連や中国といった大国が絡んできてドンパチをやらかしたりと壮大なスケールでドタバタが繰り広げられる。さらに、ゴスケと親しくなった女の子「ひとみ」が路上で真っ裸にひんむかれたり、ゴスケがハーレム状態を味わったりと、エッチな方面にもドタバタが展開し、それもまた悪ノリ感たっぷりだ。悪ノリばかりか、ヤケクソ感が漂っている気すらする(笑)
 人間核兵器を造った張本人の巴博士が異様にグラマーで色っぽい、というのも手塚先生の悪ノリのひとつに思える。
 そういう徹底した悪ノリ表現によって、人間核兵器というおそるべき発明品をめぐる人間の醜態が喜劇的にあぶり出されている、と解釈することもできるだろう。喜劇的であるだけに、危急の状況下に置かれた人間たちの醜態や滑稽味がダイレクトに伝わってくる。



 物語のラストで、巴博士の口からそれまで語られなかった真相が明かされる。
『ブタのヘソのセレナーデ』というタイトルがすでにほのめかしているように、じつは、核兵器にされたのはゴスケではなくゴスケの飼っている豚の「ノンコ」であって、起爆スイッチは豚のヘソだったのだ。巴博士が造ったのは人間核兵器ではなく、豚核兵器だったわけである。
 そんな真相など知らないゴスケとひとみのカップルは、ノンコのヘソを何気なく押してしまう。押せば当然ながら核爆発である。
 この行為によって、それまでドタバタ喜劇を演じてきたすべての人々があっけなく無に帰してしまう。それまでの賑やかなノリが一瞬にして静寂と化し幕を閉じるのだ。こんな破滅的で虚無的な結末が、ラスト1ページの「ピカッ」という描き文字だけで表現されているのが、まことに印象的である。視覚的な情報が極限まで省略された表現だが、それだけに、何もかもが唐突に無になってしまったのだという空しい感覚が瞬時に届く。



 豚のノンコのヘソを押すことで核爆発が起きて東京が壊滅するわけだが、ではなぜノンコのヘソを押すことになったのかといえば、これがまた妙に軽いノリなのだ。
 ノンコが衰弱して死にそうなので焼豚にして食べようと仰向けに寝かせたら、ノンコのデベソが気になって不意に押してしまったのである。
 ペットとしてかわいがってきた豚が弱ったから食おうと思う。食おうと思って仰向けに寝かせたらデベソだったので押してみる。そんな軽い理由で東京が壊滅してしまったのだから、ただでさえ救われない世界がますます救われない気分になる(笑)
 本作は、そんなふうに最後まで悪ノリが続く。物語の舞台と登場人物のすべてを核爆発で破滅させてしまうこと自体、最大の悪ノリといえば悪ノリだし、その最大の悪ノリを迎えるきっかけが「弱った飼い豚を食おうとしたこと」だったのだから、唖然とするほどふざけた悪ノリである。



 こうして見てくると、ストーリー的にはまるで救いのない作品に思えるが、私は手塚先生の悪ノリにうまくノせられてしまったためか、後味の悪さは感じなかった。気持ちが沈むこともなかった。むしろ、奇妙なほほえましさや変なノリノリ感が余韻として残ったほどだ。
 大規模な破滅が訪れたのに気持ちは重くならない。重くならないどころか、何だか軽い。軽いけれど、でもラストの破滅にはやっぱり複雑な気分にさせられる。『ブタのヘソのセレナーデ』は、そんなふうに独特の奇妙な読後感を残す作品なのである。