『ブラック・ジャック』「灰色の館」

 
 『ブラック・ジャック』の下敷きです。秋田書店発行のコミックスのノベルティで、1970年代のもの。先日、名古屋の古本屋に立ち寄ったら安価で売っていたので購入しました。ブラック・ジャックの歯磨き、トイレ、着替えといった、ある意味レアなシーンの連続です。
 この絵は、下敷きのために描き下ろされたものではありません。「週刊少年チャンピオン」1974年4月1日号で発表された「灰色の館」という話の一場面です。
「灰色の館」初出時のトビラ絵は、単行本で見られるものと違って見開きカラーでした。下敷きで使われたこの場面は、その見開きカラーのトビラ絵の次のページにあたります。


 この絵からわかるように、ブラック・ジャックは、早朝、まだ眠っているピノコに気づかれないようこっそりと部屋を抜け出そうとします。無事抜け出したと思って車の置き場所に来てみたらピノコがちゃっかりお出迎えしてくれて、この1ページでひとつのオチがついた感じです。
 その後、二人が向かったのは山の上に建つ大きな洋館でした。そこで出迎えてくれたのは、スラリと背の高い、気品のある美女でした。この邸宅は代々このあたりの大地主だったといいます。
 ブラック・ジャックを呼んだのですから、もちろんこの家には彼に治療してもらいたい患者がいるのです。それが、美女の兄でした。
 兄は、大やけどを負って顔が原型をとどめていません。顔ばかりか舌や声帯も損傷して話すこともできないのです。こんな大やけどを治せるといったら、やはりブラック・ジャックをおいて他にいないでしょう。


 妹なのだから大やけどを負った兄を治してあげたいというのは自然な心理です。ですが、この兄妹には暗い秘密があったのです。
 兄はとても残忍な人間で、日頃から妹をひどく虐待していました。そんな日々が続くなか、ある日カッとなった妹は兄の頭部を壺で殴ってしまったのです。意識を失った兄を死んだものと思った妹は、兄の死体を焼こうと焼却炉へ放り込んだのですが、死んだように見えていた兄はまだ生きていて、全身黒こげになりながら焼却炉から脱出してきたのです。妹は、廃人と化した兄を地下室に隠しました。


 どんなに残忍な人間でも、世の中でたった一人の兄です。妹は兄を愛していました。大やけどを治してあげたいと願ったのです。そうしてブラック・ジャックにたどりつきました。
 兄を治せば、兄は妹に復讐するかもしれません。もとより残忍な性格の兄ですから、兄が健康体になれば妹は殺されてしまう可能性があるのです。
 ここで読者である私は、ちょっと希望的観測を抱きたくなりました。
 大やけどが治った兄は、自分を治そうとしてくれた妹の愛情をくみとって改心し、妹に感謝して、その後は仲良く暮らすようになる。そんなヒューマンなハッピーエンドを期待する気持ちが私の中に生じたのです。
 なにしろ、下敷きで使われた場面のように、この話の冒頭ではブラック・ジャックの朝の支度が軽妙な雰囲気で描かれていますから、こうした始まり方をする話はハッピーエンドになるような気がしたのです。


 ところが、手塚先生は容赦なくシビアに物語を終わらせました。ブラック・ジャックのおかげで元の顔や声を取り戻した兄は、自分をひどい目にあわせた妹への恨みを抑えきれませんでした。妹の顔をバーナーの炎で焼いて仕返しをしたのです。その火は屋敷にも燃え移り、そのまま室内にいた兄と妹は焼け死んでしまったようです。
 兄への愛情を拭いがたく、ブラック・ジャックに頼んで兄の大やけどを治してあげた妹は、そのため兄に殺され、その兄も、せっかくブラック・ジャックに大やけどを治してもらったのに、治った直後に殺人をおかし自分の命を落としてしまったのです。
 兄の残忍な性格は大やけどの前と変わっていませんでした。妹への恨みが加わったぶん、兄の残忍性は増してしまったようです。


 ブラック・ジャックは最後にこんな言葉を吐き出します。
「医者は人のからだはなおせても……ゆがんだ心の底まではなおせん」
 やりきれない思いを短く吐露しており、箴言のように心に響くセリフです。医者の、すなわちブラック・ジャックの医療技術がいかに優れていても、そこにはどうしても限界がある。ブラック・ジャックの言葉が重く胸に刺さります。


             ※        ※          ※


「灰色の館」のように、『ブラック・ジャック』にはブラック・ジャックの手で命の救われた人物が、その後まもなく別の理由で命を失ってしまう…という話がいくつもあります。たとえば、手塚治虫文庫全集1巻に収録された話だけでも「アナフィラキシー」や「二度死んだ少年」が見つかります。
アナフィラキシー」は、戦場で重傷を負った青年をブラック・ジャックが命がけの思いで救ったのですが、再び戦場へ戻されるくらいなら死んだほうがまし、と青年は自殺してしまいます。青年の父親は軍人で、代々軍人の家系であることを誇りに思っていました。戦場で死んでこそ名誉だと。だから治った息子を再び戦場へ戻そうとしたのです。
 手塚マンガには、戦争は嫌だ、戦争を二度と起こしてはならない、戦争なんてごめんだ、という思いが伝わってくる作品が多々あります。「アナフィラキシー」もそうした作品のひとつとして読むことができましょう。


「二度死んだ少年」は、殺人犯の少年が逃亡中に投身自殺をはかってほぼ死に等しい状態に陥るのですが、ブラック・ジャックのおかげで生き返ります。ですが、殺人犯なので裁判にかけられ、死刑判決を言い渡されて、刑が執行されてしまうのです。ブラック・ジャックは叫びます。
「この少年はいったん死んだんだ その死んだ少年をわざわざ生き返らせて助けたんだぞ 死刑にするため助けたんじゃない!! どうしてわざわざ二回も殺すんだっ なぜあのまま死なせてやれなかった!?」
 自分が必死の思いで救った命が、その後別の理由で失われてしまう。ブラック・ジャックのやりきれない痛切な思いが伝わってきます。そして、命を助けるとはどういうことか…と考えさせられます。


 世の中にはいろいろな理不尽がありますが、一度救った命がその後まもなく別の理由で失われてしまうというのは、あまりにやりきれない理不尽です。