『タイガー博士の珍旅行』


 「漫画と読物」1950年4月号から12月号まで連載された。
 1950年は手塚先生が本格的に雑誌連載へと踏み込んだ年だ。1947年『新寶島』(育英出版)で単行本デビューし多くの読者を驚嘆させ虜にした手塚先生は、それから赤本と呼ばれる描き下ろし単行本をメインフィールドに傑作を続々と生み出してきた。その量の多さと質の高さによって“漫画家・手塚治虫”の才能と実力が抜きん出たものであることが証明された。
 そうして1950年、手塚先生は雑誌での連載に本格的に乗り出す(それ以前にも雑誌に連載したことはあるけれど)。この年に始まった雑誌連載の主要な手塚マンガは2作品。ひとつが「漫画少年」11月号で始まった『ジャングル大帝』、もうひとつが、今回取り上げる『タイガー博士の珍旅行』(のちに『タイガー博士』と改題)である。『ジャングル大帝』は手塚先生の代表作として人気も評価も作品への言及度も高く、アニメ化されて世間的認知度も高いけれど、『タイガー博士』は一般的にはあまり知られていない。だが、この作品にも見るべきものはたくさんあり、語りたい欲求を駆り立ててくれる。



『タイガー博士』は登場人物たちがいろいろな国を巡る旅行モノであり、軽妙なタッチで描かれた冒険モノである。登場する国は架空のもので、その国々を巡るのはタイガー博士(泰賀博士)率いる少年野球チーム・タイガースのメンバーたち。タイガースは日本の野球チームという設定で、この点に関しては実在の国名が出てくる。
 タイガースのメンバーが2番目に訪れた“魔法国”は、王様が魔法大臣のおだてに乗って魔法に凝りすぎ、国民が迷惑しているという、そんな国だった。この国で起こるさまざまな不思議現象は魔法によって引き起こされたもの…であるかのように見える。しかしほんとうは何らかの合理的な仕掛けが施されているにちがいない、と真相を突き止めようとする展開が特徴的だ。それを読むと、手塚先生らしい“科学者の眼”が作中に導入されているなあ、と感じる。魔法に見えていた現象の種明かしの面白さを味わえるのだ。



 魔法国を出たあと、砂漠の途中で、天井に大きな蜜袋がたくさんぶら下がった洞穴に入る。この洞穴、実はアリの巣で、蜜袋はアリのお腹だった。
 手塚先生は、小学校5年生のときクラスメートから見せられた「原色千種昆蟲図譜」(平山修次郎)で昆虫に興味を持って以降、大の昆虫好きになり、ペンネームにも「虫」の字を入れるほどであった。そんな先生の虫好きっぷりが多くの手塚作品で表現されているわけだが、これもその一例である。蜜袋が洞穴の天井からぶら下がっているのは、不思議な驚きに満ちた光景だ。その蜜袋が実はアリのお腹であったことが判明すると、さらなる驚きがもたらされる。
 手塚先生の虫好きといえば、この洞穴の場面の直前で“イナゴの大群が景色を埋め尽くす”という迫力ある大ゴマが描かれていたりもする。



 この洞穴のアリの社会は、ある悩みを抱えていた。立派な国をつくったのだけれど、心のあたたかさがない、というのだ。働くのも子育てするのも事務的にこなすだけで、ほのぼのとした愛を持っていない。それを改善するため人間を見習いたく、人間に指導してもらいたい、とリーダー的なアリがタイガースのメンバーの一人トラオにお願いする。
 そこでトラオは、アリの生活ぶりをチェックしながら指導を行っていった。蜜袋として単なる容器のように生涯を過ごさねばならないアリたちがいることや、食糧のかたまりをあっちからこっちへ移すだけの単純作業に従事するアリがいることに目をつけ、そんなことはやめてもっと楽しい仕事をするように、と改善を要求。トラオの指導に従ったおかげでアリたちは仕事がはかどり、皆が朗らかになった。
 そのくだりを読むと、疎外された労働者たちを解放し、働くことが喜びであるような本来の社会にしようと考えたマルクスの存在を思い出す。



 トラオの指導で幸福になったかに見えたアリの社会だが、それでめでたしめでたしではないところが手塚マンガのシビアさである。自由を得たアリたちはしだいに怠けるようになり、食糧の供給源であった蜜袋もなくなって、社会がまわらなくなってしまったのだ。砂漠という過酷な環境下で生きていくには、以前のような“喜びのない”労働の仕方でなければならなかったのである。
 なんという皮肉な結果だろうか…。
 マルクスが良かれと思って訴えた思想も、現実に誕生した社会主義共産主義国家では良い結果を生まなかった、と現時点までの歴史は物語っている。『タイガー博士』のこのくだりは、社会主義の失敗を予見していたかのようにも読み取れるが、まあ、それは私の牽強付会というものだろう。特定の思想をどうこうという意図はなかっただろうし。



 その結果に触れてトラオは言う。「しょせんアリなんかに人間のしあわせはまねられないよ」。先述したように、アリ自身も「心のあたたかさがない」ことを自覚していた。私は、この前当ブログで取り上げた『鉄腕アトム』「フランケンシュタインの巻」を思い出さずにはいられない。「フランケンシュタインの巻」では、ロボットを生産する工場の工員を人間ではなくロボットがつとめるような社会状況が描かれている。そのなかで、ロボットの工員は仕事を精密にやるけれど生産されるロボットに“いい心”を植えつけることができない、と語られる。
『タイガー博士』では、アリが“心のあたたかさ”を持てない存在として描かれ、「フランケンシュタインの巻」では、ロボットが“いい心”を植えつけることのできない存在として描かれている。手塚マンガは、人間の非人間に対する差別や、人間と非人間の対立などを描くことで人間がどうしようもなく有する理不尽さやエゴや醜さのようなものをあぶり出すことがよくあるが、ここでは、そんな人間と、人間ではない者(アリやロボット)とを区別する要素として“あたたかい心”“いい心”を提示している。そのような生まれながらの良心を持っていることが人間のすばらしさであるというわけだ。そして、その“良い心”は“悪い心”と表裏一体であることも、手塚マンガは冷徹に描いている。



 タイガースのメンバーは、アリの世界の次にスター国を訪れる。スター国というと初期SF三部作のひとつ『来るべき世界』(1956年)に登場するスター国を思い出すが、『来るべき世界』より前に『タイガー博士』のなかで同名の国が描かれていたわけだ(この二つの国は同一の国というわけではなさそうだが、米国をモデルに発想された科学技術の発達した国という点で共通している)。
 このスター国は、発達した機械文明に依存しており、食事をとるのも煙草を吸うのも自動義手がやってくれるし、室内で行なう用事はボタンを押せば済ますことができる。ところがタイガース一行は、そんな極度に自動化された生活に不慣れのため、失敗したり戸惑ったりする。この描写から、あまりにも機械文明に頼りすぎる社会へのシニカルな視線を感じとれる。
 作中には、この機械文明を嫌う人物も登場している。科学文明に頼る側が、トランペット大統領を代表とする科学党なら、それへのアンチ勢力が、サキソフォン率いる自然党である。
 サキソフォンの企てによって国民が科学文明に疑問を感じるようになり、その結果、自然党が政権を握り、サキソフォンが大統領となる。それまで頼ってきた機械文明が次々と捨てられ、破壊されていき、それが極度に押し進められることで非常に不便で不幸な国と化してしまう。
 科学党政権時代は機械文明に過度に頼り、自然党政権に代わってみれば過度に機械文明を否定することになり、どちらにせよ極端な社会ができあがってしまったわけだ。理想・理念を極端に押し進めた社会はディストピアになる…という風刺が効いている。
 この問題は、科学党のトランペットと自然党のサキソフォンが、それぞれ自分の行き過ぎを反省し、互いに手を握り合うところで光明の兆しを見せる。反省と和解と協調、それこそが人間の社会を良くしていくのに必要な人間的な行ないなのだ、と私はこの作品から学んだ気がする。