『アトムの最後』を読む

 先月28日に発売されたムック本「手塚治虫のさらに奇妙な話」は表紙を飾る『アトムの最後』(初出:別冊少年マガジン1970年7月号)のカラー絵に誘われて購入したのですが、この『アトムの最後』、何度読んでもそのディストピア状況や救いのなさが重くのしかかります。絶望的事態が2重3重にも畳みかけられる終盤のやりきれなさたるや…。
 
 映画『猿の惑星』では猿と人間が逆転していましたが、『アトムの最後』はロボットが人間を家畜のように扱っている近未来が舞台です。家畜といっても飼い主がロボットですから食糧用とか農耕用の家畜ではないんですよねえ…。他の残酷な運命が待ち受けているのです。(ただ、家畜である人間のための食糧は必要なので、牛や豚など食糧用の家畜は別にいるのかもしれません。作中では描かれていませんが)
 優しく善良そうな夫婦が、子どものやった命にかかわる行為に対し「たかが子どもの遊び…」と軽くとらえるあたりからちらほらと違和感が漂ってきて、その違和感があんな衝撃的な真相につながるとは…。


 『アトムの最後』には、まさに“アトムの最期”となる場面があるわけですが、あの人気者のアトムの最期が空しさをともなうほどあっさりと描かれていて、初めて読んだときはそのあっさり加減が非常にショックでした。そもそも、アトムが博物館で展示されるだけの過去の遺物化している物語序盤の状況だって、かなりショッキングなのです。


 アトムはこの物語の中では脇役をつとめていて(まあ、アトムが脇役でもそれはそれでよいのですが…)、そんな補助的な扱いのうえ、なんともあっさりと拍子抜けするような感じで最期を遂げてしまう…。実際の死とは劇的でも英雄的でも何でもなくそういうものだといえばそうなのですが、アトムのそれまでの活躍、人気、功績などを思うと、なんのためにアトムがこの作品に登場したのか、なんでアトムがこんな目に合わねばならないのか、とアトムに思い入れがあればあるほど理不尽な思いや悲痛な感情がわいてきます。


 博物館で永遠の眠りについていたのに強引に目覚めさせられたアトムがロボットと人間どちらの味方になるか選択を迫られたとき、人間の味方をしてくれました。それは、私も人間なので単純に嬉しかったのですが、アトムがそういう選択をしたのは「人類の味方をしよう!」という大きな目的のためというより、目の前にいる2人の変わらぬ愛を信じたからなんだろうなあ、と思ったりします。なのに、アトムが信じたその愛も空しいくらいはかないものでした…。


 自分が人間であるためか主人公の青年・丈夫に感情移入してこの話を読みがちなのですが、彼は平和で安定したロボット社会から見たらテロリストみたいなものなんですよねえ。それに、アトムの善意・援助・犠牲を一挙に無駄にするようなことをしやがって!という腹立たしい気持ちにもさせられます。ただ、作中で彼に突きつけられる諸々の真実は彼にとってあまりに酷だなあ…。


 人間が母親の胎内じゃなく人工授精によって筒状容器の中で産まれる(人間が工場のような施設で生産される)というところは、『アトムの最後』より少し前に手塚先生が描いていた『人間ども集まれ!』(週刊漫画サンデー1967年1月25日〜1968年7月24日)の基底をなすアイデアでもありますね。オルダス・ハクスリーディストピア小説すばらしい新世界』(1932年発表)から着想を得たのでしょうか。この小説でも人間は壜の中で産まれているのです。そこは人間が工場で大量生産される世界。特殊な技術の開発によってひとつの受精卵から最高96人、平均72人の人間ができるし、ひとつの卵巣から最高16012人、平均して11000人ほどの人間を生み出せるというのです…。


 『アトムの最後』の作中で人間がロボットに支配されるまで衰退していったのは、元はといえば人間の自業自得なわけです。これは手塚先生が人類の文明に鳴らした警笛(人間とロボットとの関係に限らずもっと普遍的な警笛)として今も響きます。


 物語内容には暗澹たるものがあり、とくにアトムの扱いを思うと非常につらい『アトムの最後』ですが、作品としては優れた近未来ディストピアSFであり、風刺性も高く、伏線が見事に回収されたり、意外な真相、驚きの展開に満ちた構成で、さすがは手塚先生!と唸らされる一編です。
 手塚先生は、『アトムの最後』を描いた時代は急進的な学生運動が流行っていて、漫画や劇画の内容も暗くてニヒルなものが多く、それらに影響を受けた…といったことを述べておられました。たしかに『アトムの最後』からは相当なニヒリズムを感じます。