『ふしぎ旅行記』


 昭和25年、描き下ろし単行本(家村文翫堂)で発表された。
 タイトルのとおり“旅行”マンガである。当ブログで以前取り上げた『タイガー博士の珍旅行』と発表時期が近い。『タイガー博士…』が架空の国々を巡る旅行モノであるのに対し、こちらは中国、インド、エジプト、イタリア、フランス、アメリカと実在の国々を旅している。


 冒頭、映画の撮影所に入り、その内部を図解する見開き大ゴマがあって、その後すぐ映画の試写室の場面に移る。これから始まる『ふしぎ旅行記』のお話は“試写室で観る映画”という体裁なのだ。読者は、本を開いてマンガを読み始めたつもりが、試写室で映画を観る気分へと誘導される。凝った演出である。


 そうやって始まった物語は、最初のところで「ええっ!?」と驚かせてくれる。初期手塚マンガで頻繁に少年主人公として活躍する重要なキャラクター“ケン一”が、物語が始まったとたん死んでしまうのだ。ケン一のことだから『ふしぎ旅行記』でも主人公か主人公級の人物のはずである。それがあっさり死んでしまうなんて……。いったいこれからどうなるの?と心をつかまれる。


 で、どうなるかと思ったら、ケン一は幽霊としてこの物語に出演し続けるのだった。幽霊になると人間の目から見えなくなるが、人間や動物の死体に乗り移って活動することはできる。ケン一は、幽霊の先輩にあたる“ハロウィン”とともに、失った自分の身体の代わりになる身体を探し求め、もともと一緒に旅行するはずだった“ヒゲオヤジ”を追いかけるかのように世界を旅する。
 もうこの時点で、まさに“ふしぎ”旅行である。
 この作品が発表された時代は、一般的な日本人が海外旅行に出かけるなど夢のまた夢だった。だから、たとえ作中で“ふしぎ”な事件が起こらずとも、登場人物たちが外国を旅し、ピラミッドやピサの斜塔など象徴的なスポットが描かれるだけで、読者は疑似海外旅行感覚を味わえてワクワクしたにちがいない。そのうえ行き先々で奇妙な事件や珍しい出来事が起こるのだから、そのワクワク感は半端ではなかっただろう。



 当ブログで『タイガー博士の珍旅行』について書いたとき、私は虫好きの手塚先生らしさがうかがえる事例として、アリの社会のエピソードを紹介した。こちらの『ふしぎ旅行記』でも、そういう事例が見られるので(作品全体から見れば瑣末な場面ではあるが)私の個人的な注目点として言及したい。
『ふしぎ旅行記』で手塚先生の虫マニアっぷりがうかがえるのは“スカラベ虫”なる昆虫が登場する場面だ。スカラベ虫は、俗に“ふんころがし”と呼ばれ、牛の糞を団子状にして後ろ脚で転がす甲虫である。
 このスカラベ虫を、本作の主要旅行者である“チルチルとミチル”(2人は父娘の関係だが、娘のミチルの体にはケン一が乗り移っている)がエジプトで見つけ、熱心に観察するのだ。そこでは、スカラベ虫のユニークな生態が描写されたうえ、その生態ゆえにエジプト人はこの虫を神のように崇め、ミイラのヒントにした、という知識も披露される。“ふんころがし”の生態で3ページも割くなんて、虫を愛する手塚先生ならではだろう。(ちなみに、『鉄腕アトム』の「エジプト陰謀団の秘密の巻」には、スカラベ虫の姿をした乗り物が登場する。エジプト陰謀団の乗り物である)


 本作には、“アンペア”なる人物も登場する。『ふしぎ旅行記』を読む過程で私が妙に気になった人物だ。善い人のはずなのに、時おり不審な言動を見せる。何か裏があるようだ。そして、何だか彼の言動に辻褄の合わないものが感じられる。私の心に幾ばくかの違和感が植えつけられた。
 そういう妙な感じを抱きながら物語を読み進めると、終盤で、「なるほど!アンペアの言動の辻褄の合わない感じは、こういう理由だったのか!!」と目から鱗が落ちるような真相が明かされる。その真相が何なのか、ここでは具体的に触れないが、そうした類の秘密を持った人物を昭和25年当時の少年マンガに登場させた、というだけでも画期的なことだったのではないか。作中でその真相を指摘する役が“アセチレン・ランプ“”というのも印象的だ。



『ふしぎ旅行記』では、人が死んだら“たましい”(または“幽霊”という言い方もされる)となり、そのたましいが再び身体に入り込めば生きた人間になる、と描かれている。
 そのことに関するケン一の説明を引用しよう。

「この世の中はなんでもたてとよこと高さの三つの軸からできてるでしょ?この三つのほかにもうひとつ何か軸がある世界が四次元世界です ぼくはいまその世界にいるんです! 水は蒸発しても水蒸気としてどこかにあるように 人が死ぬとからだはくさってなくなってしまうけれど タマシイはちゃんと四次元の世界で生きていて からださえあればまたもとの世界にもどれるんですよ」

 そうした“たましい”論に触れて私のなかでイメージがつながった手塚マンガが、『火の鳥[未来編]』(初出:昭和42〜43年)である。
火の鳥[未来編]』は、『火の鳥』シリーズで最も先の未来を描いている。作品が雑誌に発表された順番で言えば[黎明編]の次なので、全『火の鳥』のなかでは早い時期の作品にあたるが、物語のなかの時系列で見ると、いちばん最後のお話になるわけだ。だから、[未来編]は『火の鳥』が描く長大な人類史の結末にあたり、『火の鳥』がテーマとする“生命”というものの正体が結論的に表現されている。
 ふだんはこの宇宙を動きまわっている“宇宙生命(コスモゾーン)”が、たまたま物質と結びつくと生物になり、いずれその生物の寿命が尽きると、肉体は滅びるが宇宙生命として持続していく。
『ふしぎ旅行記』では“たましい”とか“幽霊”と表現され、『火の鳥[未来編]』では“宇宙生命(コスモゾーン)”と表現されているけれど、形も大きさも色も重さもない生命の素のような何かがあって、それが物質と結合することで生物とか自然とか星とか呼ばれるものとなり、目に見える状態で活動することになる。そして、その生物が死を迎えれば、生命の素は再び物質から離れ、目に見えない何かとなって非物質的な次元で持続する。それがまた物質に入り込んで生物となる……。その繰り返しが、すなわち生命の秘密、生命の正体というわけだ。
『ふしぎ旅行記』で描かれた生命の正体が、『火の鳥』ではもっと突き詰められた状態で表現されているが、ここに手塚先生の死生観が端的に表れているような気がする。
 ちなみに手塚先生は、幽霊も生まれ変わりも信じている、と発言している(「手塚治虫オールナイトニッポン」昭和62年1月1日)。


 このテーマに関しては、手塚先生のこんな言葉も気になるところだ。

「コスモゾーンというのは、宇宙胞子と訳されるんですが、本来は宇宙から来た胞子で、それが地球上のあらゆる生物の源になるわけです。だから、ぼくが「未来編」で描いたことは、本当はインチキで正しくないんです」(「COM」昭和45年1月号)

 私はコスモゾーンという言葉を、『火の鳥』の作中あるいは『火の鳥』関連の言説でしか見聞きしたことがないけれど、手塚先生が言うには、『火の鳥』で描かれたコスモゾーンは本来のコスモゾーンの正しい意味からは離れているようである。

(【付記】先に引用した『ふしぎ旅行記』のケン一のセリフでは四次元世界が説明されている。四次元世界の説明といえば、『ふしぎな少年』でも見られる)